2024年03月29日( 金 )

珠海からの中国リポート(2)

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福岡大学名誉教授 大嶋 仁 氏

意味の国と無意味の国

 珠海の町の中心部にイオンのショッピング・モールがあり、日本製品が多く売られている。若者たちはその一角にある「名創優品」に集中し、彼らのイメージする「日本」をあさる。その店頭に並ぶ商品は、日本でいえば100円ショップにあるような小物ばかりだが、生活に「新味」を与えることができるようにと、「ファッショナブル」で統一している。これで廉価とあれば、若者に受けないはずがない。

 「名創優品」の別名は「miniso」。面白いのは、さらにカタカナで「メイソウ」と書いてあることだ。カタカナの読める中国人は皆無に近いはずなのに、「日本語」だと感じさせればよいのだろう。つまり、意味不明でも構わないということだ。

 日本ではごく当たり前のことだが、意味のない文字が人目のつくところに堂々と掲げられることは、中国では新しい現象なのではないか。この国では、何でも中国語に翻訳するのが常道であろう。

 たとえば、イオン・グループは「永旺集団」となる。「永旺」とは「永く栄える」といった意味で、原語の音を生かしつつ、意味をばっちり通じさせる翻訳だ。ポカリスエットのポカリなら、「宝鉱力」(宝の鉱物による力」の意味)となる。意味不明の言葉を排し、言語の音に忠実でありつつ意味をもたせようとする中国。なのに、ここにきて「メイソウ」という意味不明の文字。中華文明も「迷走」を始めたのか?

 このようにいうのも、「中国は意味の国、日本は無意味の国」だからだ。これは、私の独断では決してない。ある中国思想の専門家によれば、「中国に長く滞在すると、漢字の世界はすべて意味があるので時に息苦しくなる」とのことだ。意味ばかりの世界と、無意味の氾濫する世界。これだけでも、日中比較は面白いではないか。

 欧米だって意味のないアルファベットが氾濫しているではないか。しかし、哲学者のデリダが言ったように、西洋のアルファベットは「音声中心」「論理中心」「自文化中心」の3つの思想を暗黙裡に担っている。「論理中心」であるということは、言葉の意味は明確でなければならないということだ。西洋もまた、言語から無意味を追放してきたのである。

 アルファベットに比べれば、漢字の世界は「視覚中心」「知識中心」である。ただし、ともに「自文化中心」であることに変わりはない。一方の日本は漢字とカナをチャンポンにし、意味と無意味の間をさ迷ってきた。自らをしっかり定義できないから、「自文化中心」を押し通すこともできないのだ。それは弱さでもあろうが、どこへでも逃げていける身軽さともなる。日本は無意味を許容し、それによって隙間をつくる。一方の中国や西洋は、無意味を駆逐することで言語の精度を高め、すき間を埋めてきたのである。

 ところで、珠海での私は日本語のよくできる学生や教員たちに、毎日日本語で話して大半の時間を費やしている。これでは中国語は進歩しないが、それだけでなく、自分の日本語が日本にいる時よりはるかに正確になっているのに気づく。母国語は気を遣わずに話せるはずなのに、相手が中国人となると、フィーリングでわかってもらうことはできないと予感し、日本人に話す時より論理をすみずみまで行きわたらせるのである。彼らが「外国人」だからではない。彼らが「中国人」だからだ。

 中国人の論理が西洋人と同じとはいうまいが、それが論理であることに変わりはない。彼らが外国語を早く習得し、見事に使いこなせるのも、彼らの論理力と関係があるのではないだろうか。日本人は論理抜きで話すことに慣れているため、いつまでも外国語を話せない。英語を何年習っても話せないのは、英語力の不足ではなく、論理力不足のせいだと思う。

 「論理」というと難しいことのように感じられそうだが、要は、思いをはっきり言語化することである。「お腹が空いた、何か食べたい」という感覚を、「お腹、ペコペコ」というかぎりにおいては、身体感覚に忠実ではあっても、論理にはならない。論理を発達させるには、身体感覚からの脱皮が必要である。

 「お腹ペコペコ」という表現に代表される日本語は、論理を発達させてくれない言語かもしれない。だからこそ、明治までの日本知識人は和歌のほかに漢文を学び、バランスをとっていたのであろう。誤解されては困るので言っておくが、日本語の身体性は欠点とは言い切れず、美点もある。人間には言語化できない部分があることを、日本人は西洋人や中国人よりもはるかによく知っているのではないか。

 ただし、問題はそこでは終わらない。論理力がないということは、見ず知らずの人に己の思いを伝えることを困難にする。学校教育は江戸時代の漢書生が享受したような論理的言語の訓練を、今一度導入すべきではないだろうか。

(つづく)

<プロフィール>
大嶋 仁 (おおしま・ひとし)

 1948年鎌倉市生まれ。日本の比較文学者、福岡大学名誉教授。 75年東京大学文学部倫理学科卒業。80年同大学院比較文学比較文化博士課程単位取得満期退学。静岡大学講師、バルセロナ、リマ、ブエノスアイレス、パリの教壇に立った後、95年福岡大学人文学部教授に就任、2016年に退職し、名誉教授に。

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