青山英明
「切糕王子」にみる商品の再文脈化
より小さな企業や個人起業家の例として、ウイグル族の若手起業家、アディリ・マイマイティトゥルの事例も興味深い。彼はインターネット上で「切糕王子」(ウイグル餅プリンス)と呼ばれた人物である。切糕とは、新疆などで見られるナッツや砂糖、蜂蜜などを固めた菓子である。中国では一時期、観光地などで高額販売や強引な販売の印象と結びつき、複雑な社会的イメージを帯びた商品でもあった。
アディリは新疆カシュガル地区の出身で、大学在学中の12年末、仲間とともに切糕を販売するネット店舗を始めた。14年8月、雲南省で地震が発生すると、彼は共同経営者らとともに被災地へ5tの切糕を寄付した。中国メディアでは、災害時に保存性の高い新疆菓子を被災者へ届けた若手起業家として報じられ、この行動が「切糕王子」という呼称とブランドの形成を後押しした。
この事例も、単純な善行としてだけ見ると一面的になる。むしろ注目されるのは、社会的にやや曖昧なイメージをもっていた商品を、寄付と公益行為によって再文脈化した点である。切糕は、ある時期には高額販売の象徴として扱われることがあった。しかし、災害時に無償で提供されることで、同じ商品が「支援」「故郷の味」「民族的特色」「若者の起業」の文脈に置き直された。商品そのものが変わったというより、商品を取り巻く意味が変わった。
ここに、公益活動とブランド形成の接点がある。寄付は、単に金銭や物資を手放す行為ではない。それが適切な文脈に置かれると、企業や個人の印象を転換し、社会的信用を形成する契機となる。馮諼が債権を焼いて「義」を買ったように、アディリは切糕を寄付することで、商品と自身のブランドを新しい文脈に置き直したと見ることができる。
このとき問われるのは、「お金」と「いい人であること」のどちらが大事か、という単純な二者択一ではない。短期的な現金収入は、企業や個人の生存にとって欠かせない。一方で、信用、評判、支持、社会的な好意も、長期的には資産として機能する。問題は、金銭と名声を対立させることではなく、どの局面で何を優先し、どのようなかたちで両者を接続するかにある。
無償労働と先行投資の境界
ここで、統合マーケティングコミュニケーション、すなわちIMCの考え方が1つの理論的手がかりとなる。IMCは、外部環境と消費者データを踏まえ、ターゲットに対してブランドを統合的なメッセージで接触させ、納得してもらう考え方である。広告、広報、販促、SNS、イベント、公益活動などをばらばらに行うのではなく、ブランドの中核的な価値と一貫したメッセージとして設計する点に特徴がある。
公益活動や寄付行為も、IMCの視点から見れば、単独の美談ではなく、ブランドと社会の接点を形成するコミュニケーションとして位置づけられる。企業が何を支援するのか。どのような方法で支援するのか。誰に向けて語るのか。支援の内容は、自社の事業や理念と接続しているのか。こうした点が曖昧な場合、寄付は一時的な話題にとどまりやすい。反対に、企業理念、事業内容、社会課題、顧客感情が接続している場合、公益活動はブランドの信頼を補強する。
この観点から見ると、馮諼の「焚券市義」は、古代における統合的な信用形成の行動として読むこともできる。馮諼は、孟嘗君という存在に不足していたものを見抜いた。孟嘗君の家には、富、地位、人材はあった。しかし、領民からの深い支持という意味での「義」は十分ではなかった。そこで馮諼は、債権回収という短期的な金銭行動を放棄し、領民の心理に直接触れる行動を取った。これは、孟嘗君の社会的メッセージを「取り立てる領主」から「民を救う領主」へ転換した行為だった。
もちろん、この行動は現代企業倫理の観点からそのまま肯定できるものではない。馮諼は孟嘗君の命令と偽って借用書を焼いており、権限の問題を含んでいる。古典を現代に用いる際には、この点への留保が欠かせない。ただし、ここで読み取りたいのは、法的・制度的な模倣ではなく、短期的な収益と長期的な信頼の交換という構造である。
現代の企業や個人も、似たような問いに直面している。たとえば、会社内で無償の追加労働をすることはよいのか。表面的には、対価を受けずに労働を提供する行為である。短期的には会社への貢献に見える場合もある。しかし、それが単に本人の時間を消耗し、組織の責任を曖昧にするだけであれば、本人にとっても組織にとっても健全とは言いにくい。一方で、危機時や学習段階において、自分の成長、信頼形成、将来の機会と接続する行動であれば、単なる無償労働とは異なる意味をもつこともある。
ここでも、問題は「無料で働くことが良いか悪いか」ではない。むしろ、それが無駄遣いなのか、先行投資なのかを見極める視点が問われる。自分の時間、労力、資源をどこに投じるのか。それは誰に届くのか。どのような信用に変換されるのか。将来の機会や関係性に接続するのか。あるいは、単に消費されるだけで終わるのか。この違いを見誤ると、善意も努力も、長期的な資産になりにくい。
富、名声、義をどう接続するか
「焚券市義」が現代に与える補助線は、ここにある。富と名声、金銭と義、利益と公益は、単純な対立関係ではない。短期的な利益を追うだけでは、危機時に支えてくれる社会的基盤を失うことがある。反対に、無計画な善行や寄付は、資源を消耗させるだけで終わることもある。したがって問われるのは、どの資源を、どのタイミングで、どの相手に、どの文脈で投じるかという判断である。
中国ビジネスにおいて、この問いはとくに見落としにくい。中国企業は、市場競争だけでなく、政策環境、社会世論、プラットフォーム上の評判、地域社会との関係のなかで評価される。企業の公益活動は、単なる慈善ではなく、企業が社会のなかでどのように位置づけられるかを左右する。とくに巨大プラットフォーム企業や知名度の高い起業家にとって、富の蓄積だけでは社会的正当性を維持しにくい局面がある。
その意味で、BATの公益活動も、「切糕王子」の寄付行為も、異なる規模で同じ構造をもっている。前者は巨大企業が社会的責任と政策環境のなかで信用を調整する行動であり、後者は若手起業家が商品イメージと個人ブランドを再構成する行動である。いずれも、金銭や物資の支出を通じて、社会的な意味を獲得しようとする動きとして読むことができる。
古典は、現代の答えを直接与えるものではない。しかし、現代の企業行動や個人のキャリア形成を考える際、行動の背後にある構造を見えやすくしてくれる。「焚券市義」は、金銭を失って義を得るという単純な美談ではない。むしろ、短期的な収益と長期的な信用の交換、帳簿上の資産と社会的資産の変換、富と名声の接続を考えるための古いが有効な事例である。
現代のビジネス環境では、利益を出すことと社会的評価を得ることが、ますます切り離しにくくなっている。企業も個人も、何を得るかだけでなく、何を手放すかによって評価される。金銭を得ることは生存の基盤であり、名声を得ることは関係性の基盤となる。どちらか一方を絶対化するのではなく、両者をどのように接続するかが、現代の企業行動と個人行動に共通する課題として浮かび上がる。
馮諼が焼いたのは、単なる借用書ではなかった。それは、短期的な債権を長期的な支持へ変えるための象徴的な行為だった。現代企業の公益活動や個人の社会的行動も、同じ問いの前に立っている。無駄遣いか、先行投資か。虚名か、真価に裏づけられた名声か。単なる善行か、社会的信用の形成か。
「焚券市義」は、この見極めのための補助線となり得る。富を否定せず、名声を過信せず、義を抽象的な美徳だけに閉じ込めないこと。その視点から見れば、古典の一節は、現代中国ビジネスにおける公益、ブランド、信用形成を読み解くための実践的なケーススタディとして、なお読み直す余地をもっている。
(了)
<プロフィール>
青山英明(あおやま・ひであき)
一帯一路日本研究センター研究員、南京大学博士課程在学中。南京大学「一帯一路」研究院首席専門家・于文傑に師事し、地政学的ロジックを一次史料に基づく解析で、海のシルクロードと「一帯一路」構想の構造的共通項が、現代の意思決定に与える示唆を研究テーマとする。
実務面では、2007年より香港、蘇州、上海、北京の主要4都市に12年間駐在。証券・PEファンドの立場から、中国経済の変遷と資本論理を現場レベルで一貫して経験した。現在、北京語言大学の非常勤講師として「日中間のビジネス事情」を担当。同時に、中国企業の日本パートナーとして隔月での現地往来を継続しており、企業のハンズオン支援やスタートアップ投資を通じて、現地の最新の意思決定プロセスに直接関与している。








