今昔雑感(1)失われた「曖昧さ」と新たな「群れ」

群れの中で身につけた生きる術

 高度成長前、東京の世田谷、杉並にはあちこちに畑があった。東京にもヘビやカエル、ホタルがいたのだ。そして、たいていの国民に田舎(故郷)があった。子どもたちは周りの大人に叱られながら木に登り、屋根に上がった。製材所の巨大な帯鋸のそばでスギ丸太が製材されるのを見た。夏には子どもたちだけで川や海に行き、野山で遊んだ。自由、放任だった。

 団塊の世代が子どものころ、彼らは群れた。群れの中で学び、身につけたのはルール。思いやり、リーダーシップ。そこには年齢による序列があり、競争があり、いじめがあり暴力もあった。時にそこで卑怯な手口も学んだ。しかし、不正義の実行にはブレーキがついていた。群れの中で身につくのはある常識であり、環境に順応する逞しさだ。そのどれもが人生を生き抜く術だ。

 これらは学校教育という秩序の中では身に付かない。それは、為替相場や物価、株価といった経済数値を政、官、民総がかりでもうまくコントロールできないことと似ている。

 人がそれらしく生きるには寛容と曖昧の社会環境がベストだ。曖昧を英語にするとファジー。いわゆる物事の境目がはっきりしないということだろう。いわば「人間的」といってもいい。人にはそれぞれが持つ基準と価値観がある。それが許されるのが自由社会だ。

 そこには複数の政党があり、公正な選挙がある。しかし、それと引き換えに物事を決めるのに時間がかかるという非効率を甘受しなければならない。加えて、意見を異にする人間との共存という不快も受け容れなければならない。

経済成長が進めた社会の「標準化」

 戦後の指導者は、貿易戦という戦後の新たな国際競争に活路を求めた。銃火器をカネに持ち換えての戦いだ。それに勝利するには、非軍事の強力な戦闘集団を育成しなくてはならない。国に代わる会社に忠誠とその発展に力を尽くす精鋭集団の創造だ。彼らは店舗や工場といった器を用意し、それに合わせて組織をつくり上げることを試みた。

 同時に行われたのがファジーの修整だ。ファジーはアメリカ流の自由と民主教育がもたらしたものだ。しかし、与えられた自由は時として無秩序を生む。その消去は学校、職場をはじめ、あらゆるところで行われた。特に職場ではそれが徹底された。手段は「標準化といわれる効率と無難の創造」だ。目論みは大方うまくいった。若者が地方から都市に流れ、懐が豊かになるにつれて世間は穏やかになり、多くの民は従順になった。

 新しい戦いの勝利は敗戦の古傷をほぼ完璧に癒した。出来上がったのが一億総中流。いかにも我が国好みのカタチだ。かくて日本国は経済大国になる。世界から称賛されたジャパン・アズ・ナンバーワン。しかし、何かを手に入れれば何かを失うのが人生だ。過剰な金融緩和から土地、株価の急騰を招いた挙句、バブル崩壊といわれる転落を見た。その後の就職氷河期、経済の停滞。そして今、少子化、高齢化、人口減という社会的三重苦に苛まれている。そんな歴史の波間に消えたのが、長く続いた暮らしの伝統だ。個と社会を緩く結んでいた絆だ。今や、雨に濡れて歩く同方向の子どもに傘をさしかけることは親切ではない。声掛け事案という事件の発生だ。職場で部下の不具合を叱責すればパワハラ。マンション室内でピアノを弾くと騒音。バカバカしい…というのは今や昔だ。個と社会の緩い絆はボロボロになったということだろう。明治が始まるまで鹿児島から東京までひと月以上を要した。いまは数時間で済む。同じような変化がここ50年で進行した。

SNSがつくる新たな「群れ」

 そんな中で個と社会をつなぐ新たなツールとして登場したのがSNSだ。そこは文字通りボーダレスだ。出入りする人のすべてが詰まったパンドラの箱でもある。

 その箱の中で今、気になることがある。エコーチェンバーとかフィルターバブルといわれる現象の昂進だ。SNSに溢れる動画やブログには多くのコメントが寄せられる。それがある集団をつくる。人は不満や苦境をエネルギーに転換できる。そして時に、その解決を外に向ける。支配の世界と同じだ。大国でも政治の失敗から国民の目をそらすために他国に難癖をつける。これは何も近隣強権国だけの話ではない。

 我が国は二千年以上続く毛色と顔つき、言葉が同じ国だ。国土も狭い。他国とは海を隔てる。1つにまとまるのはそう難しくない。そこには大きな危機が潜む。排外孤立主義だ。SNSという新しい絆の進行はやがてどこかの国のように「モノ言えば唇が寒くなる時代」への入り口かもしれない。

 戦前、大正ロマンの時代はいつの間にか大政翼賛に姿を変えた。大政を国民に換えればわかりやすい。我が国には「毛色が違う」という言葉がある。人並、隣百姓という言葉も生きている。同じ塊をつくりたがるといういわば基本的気質だ。毛色が違うにも極めて強い排外主義が滲む。それはかつての一億玉砕火の玉にさえ行き着きかねない。過ぎ去ったものはそっくりそのままは戻らないが、形を変えて戻ることはある。確証バイアス、アンコンシャス・バイアス、正常性バイアス、同調バイアス。いま、SNSという世論にはそれらが溢れている。

デジャビュ:社会と重なる小売業界の再編

 そんな社会の動きと小売の世界を俯瞰すると奇妙な共通点が見えてくる。昭和の半ばあたりまでは我が国の小売には多種多様の業種と規模があり、のんびり共存していた。そこに戦後のベビーブームで人口増による余剰労働力が生まれ、円安による繊維を中心とした輸出好景気が、とてつもない個人消費に結びついた。

 そして今、団塊の世代のリタイアに始まる労働人口減少と少子高齢化で消費市場に深刻な影が差す。もちろんそれは市場の絶対額の減少にとどまらない。提供方法も大きく変化する流れの中にある。いまの若者はかさばるものや重いものを直接店舗に買いに行かない。今後、団塊の高齢化がさらに進むと彼らも同じような購入のかたちを選ぶのだろう。

 さらに時が進むと、市場そのものが縮む。SCやコンビニ、スーパーマーケット、ドラッグストアといった業態も実店舗の数はもはや限界だ。行きつく先は合併しかない。手持ちの拠点と販売手段を統合し、それが終わるあたりで、さらなる変化が訪れるのだろう。

 そこにも排外孤立主義の芽がある。新しくやってきた者が古いものを駆逐するのは歴史の常道だ。ダイエーやイオンの合併でも当初生え抜き、定期採用者しか上級管理職への登用はないとささやかれた。しかし、いまそんなことをしていると組織の進化はない。今や日航とANAが共同運航を検討し、セブン-イレブンとファミリーマートが手を組む時代だ。

 かつて、団塊の世代とその親たちは世界中で旧習を壊し、自分たちのかたちをつくり上げた。しかし、今やそれも旧型だ。それを打破しながら、新たな強さを編み出す新しい力に期待したい。

(つづく)

【神戸彲】

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