博多における筑前琵琶のあゆみ──発祥の地に音色を響かせ続ける人々

 NPO法人 福岡城・鴻臚館市民の会が主催する「第17期 福岡歴史観光市民大学」の第9回講座が、9月15日(火)に開かれた。前期最後の講座となる今回のテーマは「福博に響く筑前琵琶」。長らく講師を務める筑前琵琶保存会会主の寺田蝶美氏を迎え、博多発祥の邦楽・筑前琵琶の歴史と現在が、生演奏とともに紹介された。

筑前琵琶の音色を実演で紹介する寺田蝶美氏
筑前琵琶の音色を実演で紹介する寺田蝶美氏

シルクロードをわたってきた楽器

 講義は「琵琶といえば、皆さんが頭に浮かべるのは耳なし芳一でしょう」と、平家一門の墓所「七盛塚」がある下関・赤間神宮の話から始まった。源氏物語絵巻にも詩歌管弦の遊びとして琵琶が描かれるなど、琵琶は古くから日本の文化に寄り添ってきた楽器である。

 その起源は古代ペルシャの「バルバット」と呼ばれる楽器に遡る。シルクロードを通って東へ伝わり、途中で中国琵琶(ピパ)、月琴などそれぞれの発展をしながら奈良時代頃に日本へ入ってきたとされる。西へ伝わったものはリュートやギターへとつながった。世界に広がる撥弦楽器の仲間が琵琶なのだ。

 日本の琵琶にも複数の種類がある。雅楽の管絃合奏の一楽器「楽琵琶」、盲僧の僧侶たちが経文を唱える伴奏として琵琶を取り入れたことに始まる「盲僧琵琶」、『平家物語』を語る「平家琵琶」、島津忠良(日新斎)が武士の士気を高めるため盲僧に教訓歌を作曲させた「薩摩琵琶」──そして「筑前琵琶」である。

明治の博多で生まれた、いちばん新しい琵琶

 筑前琵琶の発祥は意外と新しく、明治時代の中頃、博多である。三味線の流行や薩摩琵琶の誕生といった影響を受けながら、筑前盲僧琵琶を改良して生まれた。先述の5つの種類のなかで最も新しい琵琶だ。初めは四絃、その後改良されて五絃が誕生した。

 薩摩琵琶と大きく違うのは「奏者に限定なし」という点だ。薩摩琵琶は当初、僧侶と武士にしか許されなかったが、盲僧制度が終わった明治に生まれた筑前琵琶は誰でも弾くことができ、女性の習い手が数多く生まれた。三味線の影響も受けて華やかで優美な節回しが育ち、呪術的・宗教的な色彩よりも芸術性の方向へ伸びていった。

 その普及を後押ししたのが、金子堅太郎や頭山満といった福岡の有力者たちだった。東京への道を開き、筑前琵琶は全国区へ。ラジオ放送が始まると「一番聞きたい番組の1つに琵琶があった」という人気ぶりだった。

 この時代に活躍したのが、筑前盲僧琵琶の家系に生まれ、後に旭会を創始した橘智定(のちの橘旭翁)、女性として早くから東京へ進出したとされる吉田竹子、橘家の縁戚にあたる鶴崎賢定らである。

柱は「木・火・土・金・水」──楽器の構造と奏法

 寺田氏は楽器の構造にも言及した。絃を押さえる「柱(じゅう)」には上から木・火・土・金・水の名がつき、中国の陰陽五行に由来する。「水」の柱を押さえ込めば「地」、さらに押さえて「天」──押さえる力の加減で音をつくり出せるのが琵琶の面白さであり難しさだという。

 撥は四絃用と五絃用で大きさが異なり、先端は柘植(つげ)製が主流で、擦り減れば先端だけを交換する仕組みになっている。象牙製の撥もある。調絃は奏者それぞれの声の高さに合わせるのが筑前琵琶の特徴で、たとえば四絃は「ラ・レ・ラ・ラ」、五絃は「レ・ラ・レ・ミ・ラ」。五絃にだけ「ミ」の音があるという具合である。

 奏法も多彩だ。押さえ込み、ハメ、掬い、胴を叩く奏法、トレモロ、そして歌の途中に入る「合の手」や歌いながら奏でる「流し」。五線譜の休符にあたる記号がないため「間」の取り方がいちばん難しいと寺田氏は語る。

「推し」がいた時代──華やかな筑前琵琶

 明治の終わりから大正にかけて、筑前琵琶は絶大な人気を誇った。各所で演奏会が開かれ、多くの女性が習得する時代。若い琵琶弾きには現代のアイドル並みに推しが存在し、聴衆は座布団をもって公会堂に通ったという逸話も残る。

 しかし戦争を経て、戦後は西洋音楽の流入で人気は衰退した。再興のために立ち上がったのが、1911(明治44)年に八幡市(現・北九州市八幡東区)に生まれた嶺旭蝶師である。7歳で筑前琵琶演奏家・久我旭昇師に入門し、9歳で「旭蝶」の雅号と教師免状を許された天才少女は、50(昭和25)年に八幡から福岡市春吉へ移り、旅館「幸村」を経営。その旅館は火野葦平ら「九州文学」同人の編集会議の場となり、文化人との交流の輪が広がった。筆の立つ作家たちが琵琶の歌詞を書き、新たな作品が次々に生まれていった。平田汲月、僧侶の佐々木滋寛、そして「角屋壽吉」のペンネームで作詞した老舗商店の波多江五兵衛らである。

 65(昭和40)年、筑前琵琶保存会が発足(当初は筑前琵琶九州保存会)。以来、毎年秋に定期演奏会を開催し、今年10月で第62回を数える。

 ここで寺田氏は五絃の琵琶を手に「博多三番叟」を演奏した。早朝の荒津山、松囃子、どんたく、櫛田神社の銀杏、祇園山笠、そして放生会──博多の春・夏・秋の名所と風情をたどる一曲に、会場は聴き入った。

二代目・青山旭子師と「嶺青流」の誕生

 嶺旭蝶師のもとに70(昭和45)年、20歳で入門したのが、糸島出身の青山旭子師である。嶺師とともにアメリカ・カナダ演奏旅行に赴き、東京では薩摩琵琶の世界的奏者・鶴田錦史師に認められて直接指導を受けるなど、筑前琵琶に薩摩琵琶のエッセンスも取り入れた。パワフルな演奏で知られ、テレビドラマ「耳なし芳一からの手紙」では琵琶監修も務めた。

 98(平成10)年の嶺師の逝去後、第二代会主となった青山師は、2007(平成19)年に会員5名を率いてエジンバラ国際フェスティバルに参加。スコットランドのハットン城やキャノンゲート教会で演奏した。09(平成21)年には保存会の芸風を「嶺青流」と称することを発表。上手になってきた若手を東京に連れて行きたいという青山師の願いは、16(平成28)年、東京・国立劇場小ホールでの「筑前琵琶春の演奏会〜義経〜」として実を結び、満員の客席を得た。青山師は19(令和元)年11月、69歳で逝去した。

どんたくとともに──博多の祭りに生きる琵琶

 筑前琵琶保存会の活動で欠かせないのが、博多どんたくへの参加だ。各所への門付けやパレード参加を続けるのは福岡ならではの伝統で、嶺師の時代、春吉の旅館からどんたくへ出発していた記録が残る。

 現在も春吉公民館をスタートし、沿道の菓子屋で演奏しては子どもたちが饅頭をもらって喜ぶ。櫛田神社では正式参拝も行い、福岡教育大学の学生も同行して祭りを体感している。パレードで演奏するのは、角屋壽吉作詞・嶺旭蝶作曲の「弥栄博多」。寺田氏は会場でその一節を披露し、「一瞬で通り過ぎるので何を弾いているか」との来場者の疑問に応えた。

「継承・発展・育成」──三代目会主の3つの約束

 寺田蝶美氏が第三代会主に就いたのは19(令和元)年12月、コロナ禍の直前だった。恩師の青山師が最後の仕事として予約していた能楽堂での演奏会を、感染対策を講じながら開催。会主就任時には、会長に就いた麻生渡元福岡県知事と3つの約束を交わしたという。すなわち「継承・発展・育成」だ。

 先代の作品・技術・思いを受け継ぎ、今に生きる筑前琵琶を追求し、次代を担う子どもたちと聴き手を育てる。寺田氏自身も作詞作曲を続け、話題作を生み出してきた。秀吉の九州平定後の博多復興と千利休の野点を描く「釜掛の松」は、石村萬盛堂の銘菓としても知られる史実を題材に、会場で演奏された。

 もう一曲、歌詞が紹介されたのが「桧原桜」だ。1984(昭和59)年、南区桧原の桜並木が道路拡幅工事で伐採されようとした際、「せめてあと二旬、開花を待ってほしい」と色紙に歌をしたためた市民・土居善胤さんの行動を作品化したもの。時の市長・進藤一馬氏が「花惜しむ大和心のうるわしや」と返歌したエピソードも紹介された。土居さんは今年8月15日に亡くなったばかりで、「本当に淋しくなりました」と寺田氏。作詞の際には土居さん宅を訪ね、こだわりの言葉を本人に確認したという思い入れの深い作品だ。

 さらに、現在の保存会会長で野村望東尼研究の第一人者・谷川佳枝子氏との縁から、望東尼を題材にした作品も披露された。姫島への流刑、そして脱出の場面が演奏され、「おもしろき こともなき世に おもしろく」の高杉晋作との和歌などを通して、和歌(うた)の力のすばらしさを琵琶に託す寺田氏のまなざしが伝わってきた。

発祥の地に音色を残すために

 「発祥の地・福岡博多に筑前琵琶の音色がずっと響いているように」──それが今の私の願いです、と寺田氏は講義を締めくくった。現在も子ども体験教室に力を入れ、11月からは新たに小学生が入門予定。60周年記念誌の編纂も進めており、インターネットに残らない昭和・平成初期の記録を後世につなぐ作業が続く。

 10月25日には大濠公園能楽堂で第62回定期演奏会「みのりの秋」が開催される。前半は信長・秀吉・家康ら戦国の物語、後半は江戸の人間模様を演目に据え、かつてカセットテープに残された合奏曲「みのりの秋」をピアノのパートをお琴に替えて復興上演するという。
「琵琶はちょっと分かると楽しくなる」。そう語る寺田氏の90分は、博多生まれの楽器が、この町の祭りと文学と人々の暮らしに寄り添いながら生き延びてきた百年余りの物語を、音色とともに伝える講義となった。

【児玉崇】

関連キーワード

関連記事