2024年04月29日( 月 )

南木曽物語~木の文化を守り、育てるために(前)

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南木曽木材産業(株) 柴原 薫 代表取締役

 島崎藤村の『夜明け前』(1932年)の舞台となった、長野県木曽郡の宿場町・南木曽(なぎそ)。藤村が「山の中」と表現した木曽路が走るこの一帯は、古くから木曽ヒノキの一大拠点として知られてきた。しかし、輸入木材による価格破壊や人材の枯渇は名木の故郷すら存続の危機に追い詰めている。この国内林業衰退の最前線で、「祖先から受け継いだ林業を諦めてしまっていいのか」と、1人気を吐く人物がいるという。「人を動かす」というその男に会いに行った。

大地と宇宙のコラボレーション

南木曽木材産業(株) 柴原 薫 代表取締役

 1990年11月、札幌市に住むアマチュア天文家が、地球から3億km離れた場所にある小惑星を発見した。火星と木星の間にあるというその星は、太陽の周りを4・4年かけて周る直径3kmほどの小さな15等星だ。
 国際天文学連合(本部:パリ市)は2008年1月、この星の名前を「Kisohinoki」(きそひのき/木曽ヒノキ)と定めた。北海道の天文家が発見した星になぜ「木曽」(長野県)の地名がつけられたのか? そこには、林業の将来を憂いながら森林環境の保全活動に尽力する、ある男性の物語が隠されていた。

 小惑星「Kisohinoki」を発見したのは、これまでに約800の小惑星を発見した渡辺和郎氏。渡辺氏は、07年7月に木曽地方の南木曽(なぎそ)町を旅行で訪れた。そこで出会ったのが、同町で製材業を営む柴原薫氏だった。柴原氏は南木曽木材産業(株)の代表を務めているが、本業と同様かそれ以上に力を入れているのが日本の林業を次世代に残すための啓発活動だ。渡辺氏は、林業の未来や森林環境の保全について熱く語る柴原氏の熱意に感動し、自身の発見した小惑星に柴原氏の名前をつけることを提案する。しかし、柴原氏が「私の名前をつけたら、落ちて『流れ星』になってしまう」と固辞したため、柴原氏の提案で「木曽ヒノキ」が採用された。渡辺氏によると、木の名前のついた星は「おそらく初めて」だという。

 大地に根を張る木と宇宙との壮大なコラボレーションは、柴原氏を軸にその後も思わぬかたちで実現することになる。

若田飛行士が宇宙に持参した、木曽ヒノキ製うちわ

 09年3月、宇宙飛行士の若田光一氏は米スペースシャトル・ディスカバリーで打ち上げられた後、国際宇宙ステーション(ISS)で日本人としては初めての長期滞在ミッションを行った。

 若田氏は、ISSにいくつかの公式飛行記念品を持参していたが、その時に選ばれたものの1つが、木曽ヒノキでつくられたうちわだった。きっかけは、柴原氏の友人である寺門邦次氏が柴原氏の熱意にほだされたことだった。寺門氏は当時、宇宙開発事業団/NASDA(現・宇宙航空研究開発機構/JAXA)の宇宙飛行室長を務めており、柴原氏が語る「放置された山林資源を有効活用して環境保全に役立てたい」という夢に強く共感した。柴原氏は有効活用の一例として木曽ヒノキを1mm以下まで薄く削ってつくったうちわを寺門氏に贈り、協力を願い出る。

 感動した寺門氏が、柴原氏の熱が伝染したかのように若田飛行士にこの話を伝えると、若田飛行士は協力を申し出て、うちわを宇宙にもっていくことに決めたという。4カ月半におよぶISS滞在の間、若田氏はさまざまな実験・研究を行ったが、そこには「無重力空間でうちわをあおぐとどうなるのか」という、「おもしろ宇宙実験」メニューもあった。そのときは、木曽ヒノキをあおぐことで生まれた推進力で浮遊する若田氏が少しずつ移動したという。

 宇宙から帰還した木曽ヒノキ製うちわはいま、南木曽にある柴原氏の会社事務所で額に入れられて鎮座するほか、南木曽町役場の正面玄関でショーケースに入れられ、訪れる住民や観光客を歓迎する。うちわには米航空宇宙局(NASA)の公式証明書も付けられており、観光や林業PRのほかに学校教育にも利用されているという。

 2つのエピソードは、柴原氏の熱意が放射するエネルギーによって実現されたといっていい。ここまで人を動かす「木の物語」を語る男とはどんな人物なのか。JR博多駅から新幹線と特急しなのを乗り継ぎ、約6時間かけて南木曽を目指すことにした。最寄りはJR中央本線の中津川駅。柴原氏自ら、駅まで迎えに来てくれるという――。

熊除けにテープが張られた、柴原氏所有の林

江戸時代の風景がそのまま残る、妻籠宿

(つづく)

 
(後)

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