2024年04月30日( 火 )

シリーズ 部下の目から見た高塚猛(1)~島津三郎氏・星期菜(株)取締役

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星期菜(株) 島津 三郎 取締役

 「高塚さんが来る前の社員たちは、お客さまではなく、上司や会社のことばかり見ていたのです」

高塚氏以前のシーホークホテル

 高塚さんがどれだけ傑出した経営者だったかを知ってもらうには、「高塚以前」の状況を説明しなければならないでしょう。まずは、私が高塚さんと出会った当時のシーホークホテル(現:ヒルトン福岡シーホーク)が、当時どんな苦境にあったかについてお話ししましょう。

星期菜(株) 島津 三郎 取締役

 私がシーホークホテルに入社したのは、1994年の9月でした。当時、シーホークホテルで新しく中華料理をやるということで、「龍殿」の開業準備室の支配人として入ったのです。ホテルのメインテーマの中華料理レストランを担当したというラッキーな面もあるのですが、開業すると平日の売り上げが約800万円を超えるような人気店になりました。龍殿は、ホテル34階と35階のツーフロアにあり、中華レストラン、バーラウンジ、中華バイキングや屋台飲茶コーナー、中華個室の6つのレストランで構成され、私はその6セクションをまとめる立場でした。総席数600席強の大型ゾーンだったのですが、連日行列ができて、特に金土日の週末は売上1,000万円を超えることもあったくらいです。予約のとれない人気店として評判になったこともあってダイエーの中内(正)オーナーに目をかけていただき、入社から1年もしないうちに料飲部長に昇格しました。

 シーホークホテルには、当時19店舗の直営レストランがありました。一口に19店舗といってもそれはホテル業界の常識からしたら規格外で、本来なら3~5店舗が理想とされていました。当然、非常に忙しい日々が続きましたがその反面、充実した毎日を過ごすことができました。
 中華支配人の仕事は、主にお客様と料理・サービスのコントロールでしたが、料飲部長当時は企画、運営・人材管理がメインで、19店舗間をとにかく走りまわっていました。当時の飲料部の売上は、一番良い年で37億円を超える事もありました。これはシティーホテルの総合売上と匹敵するレベルで、私自身も頑張ったなりの待遇をしていただきました。
 しかし、料飲部がそれだけがんばっているにも関わらず、ホテル全体ではずっと赤字が続いていました。売上自体は170億から180億円近くあったにもかかわらず、経営は火の車だったのです。特に人件費の高騰が財務内容にかなり影響を与えていましたね。例を上げると、親会社のダイエーから来た課長さんは、当時1,100万円から1,200万円ほどの年収だったのですが、ホテルで採用されたプロパーの課長さんは良くても700万円程度で、給与体系が非常に偏っていました。

 昇格制度も、当時はまだダイエーと同じ制度を採用していました。社員には等級がつけられていて、5等級以上になると昇格試験があります。6等級くらいになると、ダイエーが傘下に置いていた流通科学大学の厚い教材を6冊くらい購入して勉強しなければなりません。そこで合格点を取った社員が面接を受けて、それをパスして初めて昇格することになります。
 ただ、その昇格試験を受けられる人がじつは限られているのです。試験を受けるには、人事評価で一番良いA評価を年に2回の査定で連続して取らなければなりません。社員が20人いたらA評価は1~2人ですが、その社員でも2回の査定がA→Bだと昇格試験対象外です。A→Aで初めて試験を受けられるので、みんな必死です。対象社員は早く昇格したいから、AA査定の人は試験前に仕事をしないで、裏の事務所に引きこもってずっと試験勉強するのです。じゃあ周りの社員から不評かというとそんなことはない。周りとしてはその方に早く合格してほしいのですよ。なぜかというと、AA査定の社員に早く抜けてもらわないと、自分に次の順番がまわってきませんからね(笑)。
 そんな環境ですから、現場トップで責任感を持って動かなければならない立場の人間が仕事をしなくなるのです。肝心のお客さまを放置して、上司と会社を見ていた。そんなことを繰り返すうちに、売上と経費のバランスが取れなくなって赤字に転落したのです。ダイエーは物販が主力の企業ですから、右から左に物を動かして利益を上げますが、スタッフが真心を持ってお客さまにサービスを提供するホテル事業を、同じ考えで動かしてもうまくいくはずがありません。だからいくら売り上げても赤字が続いて、いっこうに好転する気配がありませんでした。

 当時、プリマベーラというフレンチイタリアンのお店があって、月に4,000万円近くを売り上げていました。それだけを売るためには、朝食からランチ、ディナーまで担当する4~5人体制のチームが、サービスと調理場でそれぞれ3チーム必要になります。しかも週休2日制ですから、その分余計にチームが必要になる。結果的にものすごい人数がかかわることになってきて、いくら売り上げても利益に結び付きませんでした。
 当時、ホテルのメインバンクは福岡銀行でしたが、開業から4年目を迎える年の経営推進定例会で、当時の福銀専務から「もうこれ以上の融資は無理だね」と言われた話を聞いたことがあります。毎年50億円強融資してきて、もう限界だったのですね。中内功オーナーが満を持して高塚さんを投入されたのは、ちょうどそんなときでした。そして、そこからすべてが始まるのです。

(つづく)
【NetIB-News編集部】

<プロフィール>
1949年生まれ、福岡市中央区出身。西南学院高校卒業後、東京YMCA国際ホテル専門学校を経てホテルオークラ東京へ入社。1970年代に九州初のフレンチレストラン「花の木」を立ち上げ。その後、複数の飲食店支配人を経て、1995年にシーホークホテルアンドリゾート入社(中華料理「龍殿」開業準備室支配人)。料飲部長、取締役総支配人を歴任して退職後、「ブッチャー警固」を開業。現在は「天職」と語るギャルソンとして中華料理「星期菜」に立つ。
●星期菜
URL:https://seikeitsai.jp/

 

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