2024年04月27日( 土 )

『私の少年時代』戦後の引き上げ体験記(前)

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 日本は明治の終わり頃から終戦まで満州や中国、朝鮮、台湾を植民地として統治し、開拓移民など多くの日本人がその地で生活していました。

 終戦直前の昭和20年8月9日、日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連軍が南樺太、千島列島、そして私や親せきが暮らしていた朝鮮半島北部にも侵攻してきました。それまで平和に暮らしていた家族の生活は一変したのです。
 ソ連の最前線に立つ兵隊は囚人たちでした。彼らは日本人に対し略奪、暴行の限りを尽くしました。略奪目的で民家に土足で押し入るソ連兵。慌てて床下に身を潜める日本人は、ソ連兵が居なくなるのを床下で待ち続けたといいます。毎日がこんな生活の繰り返しで、私の家族も同様だったそうです。
 「このままでは命が危ない。ソ連兵から逃げなければならない」私の家族と叔父家族は母国日本へ帰る決断をします。そこから日本への逃避行が始まるのです。

 日本への帰国を手助けしてくれたのは、ある親日家でした。着の身着のまま、できる限りの生活物資をリュックに詰め込み、紙幣を下着や下駄の鼻緒にまで隠して逃避を開始したのです。
 朝鮮北部(北鮮)から朝鮮南部(南鮮、アメリカ軍が統治)へ向かう密航船(漁船)を、その親日家は用意して待ってくれていたそうです。いとこの綾子ちゃん(5歳)はザンギリ頭の男の子姿に変身していました。
 父たちはゲートルに国民服、父や母たちはモンペ姿の下駄履きで船が待つ港へ何時間も歩き続けたといいます。母のリュックサックのなかは、乳飲み子の私のオシメでいっぱいだったそうです。
 逃避中、父がソ連兵に捕まり、あわや生命の危機に陥りました。とっさの判断で身にまとった金を渡すと逃してくれたそうです。
 やっと苦労して集合場所の港に辿り着きました。ホッと一息です。全員船倉へ潜り込み息を秘めて「早く、はやく」と心のなかでつぶやきながら出航を待ったといいます。

 我々を乗せた船は38度線を突破すべく闇夜のなかを南下し続けました。スクリュー音が船倉に潜む逃避者(引揚者)たちの体に響きました。ソ連軍に見つかると銃撃の嵐が待っているのです。すし詰めの船倉で息を潜め、胸の鼓動が漏れ聞こえるほど緊張の時間が続いたと思います。
 『船倉から小用に出た男性は揺れる船のデッキから落ちて海の藻屑になった。自分は着物をたくさん持ってきたのでそのなかに小用をした』と伯母から伝え聞いています。

 船は漆黒の闇夜の中、波しぶきを被りながら縦に横に揺れながら南下し続けました。やがて突然、船のライトが点灯します。無事38度線を突破した証でした。
 「バンザーイ!」これで日本に帰れる。船倉に潜んでいた全員がデッキに飛びだし新鮮な空気を胸いっぱい何度も吸い、誰とはなしにデッキから身を乗り出し日本の方向に顔を向けたそうです。海からの心地よい風と波しぶきが顔を撫でます。大筋の涙が汗と埃で汚れた頬に流れ落ち、その涙を何度もぬぐいました。38度線を超えたことで安堵し、船倉でひたすら南朝鮮(南鮮)の港へ着くのをまち続けたのです。夜空に3つ星(オリオン座)が光り輝き私たちの無事を祈っていたと聞きます。

 やがて船は静かに港へと入ります。そして港の倉庫で筵を身にまとい何時間もアメリカ軍の迎えを待ち続けます。やっと来たアメリカ軍の上陸用舟艇はビルのように馬鹿でかく見えたと母から伝え聞いています。
 そして釜山へ護送され、釜山から日本への引き上げ船で佐世保へ帰還したのです。この引き上げ船は、本来台湾からの引き上げを行う予定であった船を、日本政府が北朝鮮からの多くの引揚者が無残な姿で逃げてくる現実を目の当たりにし、釜山へと向けたのです。北朝鮮からの引揚者が最もひどくボロボロの姿だったのです。一方、親日家が多くいる台湾からの引き上げ者は宝石を身にまとい、贅沢な引き上げだったそうです。

(つづく)

2018年8月14日
脊振の自然を愛する会 代表 池田 友行

(後)

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