2024年03月29日( 金 )

「何かがおかしい」地方創生4年目の真実(4)

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 国民に大きな衝撃をもたらした『成長を続ける21世紀のために「ストップ少子化・地方元気戦略」』(通称 増田レポート)が出たのは2014年5月8日のことである。このレポートは、日本の地方自治体のうち約半数にあたる896自治体が2040年までに消滅する可能性があるとしている。政府は増田レポート発表の4カ月後の9月3日に「まち・ひと・しごと創生本部」を設置、同年末には「まち・ひと・しごと創生長期ビジョン」「同総合戦略」など政策の方向性を示し、具体的な事業が始まり、現在に至っている。
 しかし、その直後には、有識者の多くから「何かがおかしい!」という声が聞こえ、約4年経った今、さらに多くの違和感が出てきている。最初は青森「人口政策」(人口減少問題の解決)に行くという話だったのに、いつの間にか、切符の行き先が東京「経済政策」(地方よ、もっと稼げ、生産性を上げよ!)に変更されてしまったからだ。それはなぜか。その解明に臨んだ、話題の書「『都市の正義』が地方を壊す」(PHP新書)の著者、山下祐介首都大学東京人文社会学部教授に聞いた。

首都大学東京 人文社会学部教授 山下 祐介 氏

「都市の正義」がある一方で、「村の正義」もある

 ――先生は本書で「都市の正義」がある一方で、「村の正義」もあると言われています。

 山下 ここでは、「都市の正義」と「村の正義」の両者を比較して考えて見ましょう。都市の正義は「中央の正義」「国家の正義」であり、村の正義は「地方の正義」「共同体の正義」です。

・都市の正義は政治至上主義である。都市に集められた権力は、そこで物事を決定し、全体を動かす力として作動する。そこには支配・従属の関係がある。これに対し、村の正義は自治であり、国家に対しては分権を要求するものである。

・都市の正義は経済至上主義である。人々によるモノや貨幣の交換が活発に行われ、経済が成長して拡大していくことが望まれる。これに対し、村の正義は、暮らしや家族、家計を大切にする。それは、ほどよい規模での安定を求め、持続可能性を希求するものである。

・都市の正義は国家至上主義である。首都は国家のための首都である。他方で、村の正義、地方の正義は、国家よりも小さな地方・地域が重要である。国家と利害が一致せず、対立する関係になることもあり、その場合は国家の下の小国家としての地域という単位が対抗のよりどころとなる。

・都会の正義は大衆の正義である。大衆社会が必要とするのは政治権力であり、強い経済であり、それを実現する国家である。すなわち、政治・経済・国家が正義となる。これに対し、村の正義の共同体社会では、人々の具体的なつながりこそが重視される。そこにはしがらみや拘束もあるが、結束力もある。

出生力は「経済問題」ではなく、「心と社会」の問題

▲首都大学東京 山下 祐介 人文社会学部教授

 ここで私が強調したいのは、どうやって本来の目標である人口減少に正しく立ち向かうかということです。

 都市の正義に代表される「選択と集中」そして「競争と淘汰」に対し、本来あるべき都市の姿を、私は地方創生戦略の開始時点から一貫して「多様なものの共生」という言葉で表現しています。成員を何かの基準で排除するのではなく、多様な存在をあるがままに受け入れること。みながともに手を携えて生きていくこと。そうやって共生していることを認めることが都市をつくり、国家を運営していくことだと思っています。「選択と集中」は一時的には強力な体制をつくるかもしれませんが、安定はしません。それに対して「多様なものの共生」は持続可能な社会を実現することができるものです。

 今、地方創生は、「稼ぐ力」や「ローカルアベノミクス」に結び付けられてしまったため、出生率の回復などからは縁の遠い「経済」の話になってしまっています。しかし、出生力は決して「経済」の問題ではなく、この国に暮らす人間の生命に根付く問題、あくまでも家族・夫婦・人生のあり方、すなわち「心と社会」の問題なのです。私は、持続可能な多様な価値を認めていくことこそが、出生力の回復に、さらには実は経済力の回復にもつながるものと信じています。

その排除の対象に自分だけはならないという安心感?

 ――先生は本書を地方創生に取り組む地方自治体の職員や議員、民間プロジェクト関係者以上に、「地方創生など関係ない」と考えている普通の都市住民に読んで欲しいと言われています。読者の明日に、アドバイスをいただけますか。

 山下 現在の地方創生戦略で展開されている「選択と集中」、そして「競争と淘汰」は「冷たい客観主義」さらには「優生思想」に基づいています。ある地域を取りあげて「もう守れない。消えてくれ」といい、あるいは普通に暮らしている人々を指して「あなたにはもうコストをかけられない。この地域からいなくなってくれ」という考えが生まれています。このような「選択と集中」を含む都市の正義がはらんでいるのは、客観主義による「生=主観」の否定です。大規模な人間集団は正しく、生きていく価値があるが、小規模な集団は誤りであり、生きて行く価値がない、というものです。

 読者の皆さまに考えていただきたいのは、こうした主張ができるのは、「その排除の対象に自分だけはならない」という安心感があるからにほかなりません。そして、その安心感は、人口量(多数決でいう多数派)に自分が守られているという認識からくるものです。しかし、この安心感にはまったく根拠はありません。実は条件がそろえば、自分だって、その排除の対象にされてしまうということです。そうした当事者の主観を欠いた他人目線、根拠のない安心感によって、都市の正義は成り立っているのです。賢明な読者の皆さまには、まずその考えがもつ危うさに早く気付いてほしいと思います。つまり、「選択と集中」などといえば、格好よく聞こえるかもしれませんが、それで生き残るのは、ほんのわずかな上層部だけです。しかも、その上層部も、下の社会が壊れてしまえば存続することはできないのです。

(了)
【金木 亮憲】

<プロフィール>
山下祐介(やました・ゆうすけ)

 首都大学東京人文社会学部教授。1969年生まれ。九州大学大学院文学研究科博士課程中退。弘前大学准教授などを経て現職。専攻は都市社会学、地域社会学、農村社会学、環境社会学。東北の地方都市と農村の研究を行い、津軽学・白神学にも参加。主な著書に、『限界集落の真実』、『東北発の震災論』、『地方消滅の罠』、『地方創生の正体(金井利之氏と共著』、『「都市の正義」が地方を壊す』(以上、ちくま新書)、『「復興」が奪う地域の未来』(岩波書店)、『リスク・コミュニティ論』(弘文堂)、『白神学1~3巻』(ブナの里白神公社)などがある。

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