2024年04月29日( 月 )

人類の未来と日本(3)

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 新石器時代の考え方を哲学風に言い直せば、人類学者レヴィ=ストロースが言った「野生の思考」ということになる。人類がいかに文明を進歩させても、人類の基本は新石器時代に培われた心性、すなわち「野生の思考」なのだと彼は断言する。これを手放して「文明」に行こうとすれば、足場を失って自己崩壊するのだ。

 「野生の思考」は感覚による思考であり、そこからは数学や論理学は生まれないし、宇宙開発や原子爆弾も生まれない。しかし、毎日の生活はこれで成り立っているのであり、知らずに私たちの生を味わい深いものにしてくれているのだ。なんとなれば、それは自然とつながっている。そして、自然の一部として機能している。

 レヴィ=ストロースの『野生の思考』はそうした「原始的」な思考を、民族学の資料を駆使して弁明したものだ。一方でこの新石器的思考が人類の基礎にあり、それが今も持続していると言いつつ、他方では機械文明によってそれが瀕死の状態に陥っているとも言っている。

 では、残された希望はどこにあるのかといえば、それは科学の進歩にあり、科学が「野生の思考」を復権させる方向に向かうならば人類に活路はあると彼はいう。だが、そういう科学、そもそもどういうものなのか?

 レヴィ=ストロースはただ1つ、希望の科学として情報科学の例を挙げている。情報科学は「野生の思考」と「近代科学」を結び得るというのだ。しかし、彼はそれ以上なにも説明していない。そこで、こちらは勝手に考えるしかない。

 たとえば今日話題の「宇宙誕生のなぞ」を解明する素粒子論は、とてつもなく金のかかる大きな装置を必要とし、日本政府はその方面での日本人の活躍を望んでいるようだが、そうした方向が「野生の思考」の復権につながるとはどうしても思えない。

 それを動かすのに用いる電力が一都市の総消費電力に匹敵するというような巨大な装置によって、仮に宇宙の謎が解明できるとして、その解明は私たちの生の意味を解明することになるだろうか。とうていそうは思えない。私には金の無駄づかいにしか思えない。

 それに、何事も知りたいというのが人間の本性だとしても、もしかすると、知って価値のあるものとないものがあるのではないか。なんでも知りたいというのは、一種の支配欲の表れではないだろうか。

 レヴィ=ストロースは日本に何度か来ている。人類学者らしく、観光地の代わりに伝統技術が生き残っている村や町を訪ね歩いたようだ(『月の裏側』参照)。東京の繁華街にも行ったが、その裏道に小さな稲荷の祠を見つけて喜んだという。日本全体は山地が多く、その山地には人跡があまり見られないのを見て、日本人は無意識にも自然を守っているのだと感心したそうだ。

 これに対し、彼の翻訳者である川田順造が、急激な宅地造成による自然破壊を例に出して、このフランスからの客人に反論したのだそうだ。「日本はそんなにいい国ではない」と。しかし、世界中を見てきた人類学者はそれを一笑に付したようだ。ヨーロッパの自然破壊ははるかに昔から徹底して行われており、日本とは比較にならないと。

 学生時代から彼の著作を愛読してきた私は、20年ほど前思い切ってパリに彼を訪ねた。一時間ほど会ってくれた彼が言ったことは、今も忘れない。1つは彼が引用したオーギュスト・コントの言葉。もう1つは日本の将来についての彼自身の言葉である。

 コントの言葉というのは、人類の発展段階は、最初は神話に包まれて半ば眠っている段階、次は理性に目覚めて合理的に世界観を構築する段階、そして最後が実証科学に目覚め、なにごとも証拠なしには断定せずに地に足の着いた知識を集積させる段階という三段階のことである。レヴィ=ストロースは、実はコントはこの論には注がついていると述べ、その注には、最高に進んだ段階において、人類は実証科学のなかに最も原始的な段階の神話的な思考を取り込むだろうと書いてあるというのだ。つまり、人類の思想は原始的なものを加味しないと完成しない、ということである。

 では、実際に、実証科学は進めば進むほど、最初に見捨てた原始的な思考法を回復させようとしているのだろうか。私の見るかぎり、私たちの時代の科学はまだそこまで行っていないようである。それどころか、その気配すら見せていないと思われる。

 一方、日本について彼は以下のようなことを言った。
 日本文化はこれまで「文明」の思想と歴史以前の古い思想とのバランスをとってきた、そこが優れたところだ、と。しかし、それがいつまでも続くと楽観視してはならず、絶えず気をつけて自分たちの出発点を見失わないようにしてほしい、と。

 これを聞いた私は思わず反論した。現在のグローバル化の時代にそれをするのは難しい、不可能に近い。歴史の津波は乗り越えがたいものがある、と。すると彼はこう言った。「生というものは常に危機に瀕している。その危機を乗り越える努力こそ生きるということではないのですか?」

(つづく)
【大嶋 仁】

<プロフィール>
大嶋 仁(おおしま・ひとし)

1948年鎌倉市生まれ。日本の比較文学者、福岡大学名誉教授。 1975年東京大学文学部倫理学科卒業 1980年同大学院比較文学比較文化博士課程単位取得満期退学。静岡大学講師、バルセロナ、リマ、ブエノスアイレス、パリの教壇にたった後、1995年福岡大学人文学部教授に就任、2016年に退職し、名誉教授に。

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