2024年05月03日( 金 )

設立50周年に向けて「40周年記念感謝の集い」開催~崎田工務店

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挨拶する小林社長

 3月10日、型枠工事やRC住宅の建築を手がける(株)崎田工務店(福岡市西区今宿青木、小林好盛代表)が福岡市内のホテルで「設立40周年記念感謝のつどい」を開催。取引先や関係者ら約250名が参加した。主催の小林社長は「苦労のほうが多かったが、その分幸せは何倍にも感じている」と感謝の言葉を述べたうえで、50周年に向けた意気込みを語った。

 オープニングでは、崎田工務店40年の歩みを映像で振り返った。そこには1976年3月に撮影された一枚の集合写真には歴代社長の3人が写し出されており、今では想像しえない若かりし頃の社長が映っていた。そこから小林社長列伝が始まった。

 中学卒業後、職業訓練校で学んだ大工の経験を生かし、大阪の建設会社に就職が決まるものの、大阪行きの列車内で体調を崩し、山口県で途中下車。救急搬送された結果、虫垂炎という診断が下される。これで大阪での就職を断念することになったが、崎田工務店が40周年を迎えることができた1つの要因にもなった。

 大阪行きを断念した小林少年は当時、崎田工務店の下請業者だった黒木組に型枠職人として従事する。その後、運命の日を迎えることになる。

崎田工務店 崎田松男顧問

 1980年10月17日。当時の崎田工務店社長だった崎田照政氏が事故で急死。実弟の崎田松男氏(現崎田工務店顧問)が崎田工務店の存続をかけて、舵をとることになる。松男氏は、下請だった黒木組を解散させ、黒木組の代表だった黒木武敏氏(現崎田工務店会長)を社長に抜擢することで、崎田工務店は存続することができた。

 代表の急死により、次期経営者育成の重要性を身にしみて感じた松男氏は、早期での社長候補発掘に動いた。そこで白羽の矢が立ったのが小林好盛現社長だった。

 松男氏の開催する経営塾に1年通った小林氏は、すぐに社長になるという目標を立てる。そして1995年、当時の黒木社長に代わって、代表に就任したのが当時40歳の小林好盛氏だった。

 その後、建設業界はバブル崩壊、姉歯事件、リーマン・ショックを経験。浮き沈みの激しい業界で歯を食いしばって耐えしのぶなかで、将来を見据えたときに心に湧いてきた気持ち。「下請のままでは生きていけない。型枠技術を生かした事業がないものか」――ある日、RC住宅のセミナー案内を告げるFAXが会社に届いた。そのセミナーに参加し、生きる道と出会った。それがRC住宅への参入だった

 2009年、「下請脱却」を目的にRC住宅事業部を設立。設計1名、営業1名というゼロからのスタートだったが、数年後にようやく記念すべき1棟目のRC住宅が完成、それを見た小林社長の目には涙が浮かんだ。苦労が報われた瞬間だったのだ。その後もモデルハウスやラジオ・テレビでの宣伝を通して、認知が高まり、現在では型枠事業に肩を並べるほどの事業に成長している。

式では神楽も披露された

 主催者代表挨拶で登壇した小林社長は「40年を振り返り、苦のほうが多かった」と振り返りながら、45周年までに従業員の老後のために高齢者施設の建設計画を発表した。「そこで恩返しとして黒木会長、崎田松男顧問の世話をする」という発言に会場が笑いに包まれた。「50周年にはより盛大にお祝いをしたい。そのために今後も協力をお願いしたい」として締めくくった。

 小林社長がかじ取りを始めて、今年ではや23年。「苦しい時こそ、安全・迅速・確実」をモットーに今も活動を続けている。ある経営セミナーで出会った「為に生きる」が小林社長の座右の銘。社員のため、社会のため、そして人のため、50周年に向けて、小林社長の「攻めの人生」はまだまだ続く。

【東城 洋平】

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