2024年04月26日( 金 )

【縄文道通信第74号】温故知新シリーズ―土器、陶器から磁器の時代へ~縄文道―武士道―未来道

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(一社)縄文道研究所

 Net-IB Newsでは、(一社)縄文道研究所の「縄文道通信」を掲載していく。
 今回は第74号の記事を紹介。

陶器から磁器への技術革新は豊臣秀吉の貢献

伊万里焼 イメージ 豊臣秀吉が実行した、文禄の役(1592年)、慶長の役(97年)の朝鮮出兵により、約2万人の陶工が日本に連れてこられた。現在もこれら陶工の末裔は九州を中心に活躍している。

 有名なのは、薩摩で活躍している沈寿官である。これら陶工のなかで、有田の泉山のカオリンを1609年に発見し、有田に伊万里焼を興したのが李参平だ。それまで陶器の世界であった日本で、磁器生産が一挙に可能になったのだ。

 中国大陸では長期に続いた明の時代が終焉して清朝が1644年に誕生し、この後、清朝は約300年間続く。ところが、明朝から清朝へ移行する混乱期に大地震が発生し、中国の最大の窯業地である景徳鎮が被災し、当時、東インド会社を通じてヨーロッパに輸出していた磁器の生産が完全に停止した。

 長崎で商業活動を展開していた東インド会社は、景徳鎮の代替生産地として有田の伊万里焼に注目し、積極的に伊万里焼をヨーロッパに輸出した、伊万里の磁器は約40年間で約400万個という膨大な量がヨーロッパに輸出され、ヨーロッパの貴族に貴重な装飾品として愛玩されたのだ。

 ヨーロッパの貴族のなかで、日本の伊万里磁器を、自国でつくりたいと考えたのが、ザクセンのドレスデンに居住していたアウグスト侯爵である。アウグスト侯爵は当時の錬金術師、ヨハン・フリードリッヒ・ベトガーを自分の城に幽閉して、伊万里磁器を徹底的に研究させ、開発を支援した。長期にわたる開発の結果、1708年に中国の景徳鎮や日本の伊万里磁器に近い作品が完成したのである。

 この磁器がドイツのマイセン磁器である。実に日本の伊万里焼きが完成した1609年から約100年遅れで完成した。日本人の女性に人気のあるマイセン焼の生みの親は秀吉の連れてきた陶工だ。マイセン磁器とは、陶工らが伊万里焼を完成した後、ドイツで伊万里焼を模倣して100年経過してできた作品であることを日本人は記憶に留めておきたい。また日本人として大きな誇りでもある。

 筆者は、ベルギーのブリュッセルに商社マンとして駐在していた1993年の正月に東西ドイツ統一後の貧しかった東ドイツのマイセンを訪れた経験がある。マイセンは、真冬でマイナス10℃という凍り付く気温のなか、ホットワインにフランクフルトのソーセージが妙に美味しかった記憶がある。磁器の町は人気もなく寂しい雰囲気で、マイセンの磁器工場で、黙々と絵付けを施していた女性技術者が、元気がなくノルマをはたしている工場労働者という印象であった(東西ドイツ統一後の現在は変わったと聞いている)。

 このマイセン磁器完成により、ヨーロッパ全体に磁器文化が発展していった。日本の女性が羨望するヨーロッパの磁器は、伊万里―マイセンの模倣をして、次のような磁器ブランドとして発展してゆく。

ドイツ      「マイセン」  1710年完成
オーストリア   「アウガルテン」1715年 
フランス     「リモージュ」 1720~30年
イギリス     「チェルシー」 1743年
ロシア      「インペリアル・ポーセリン」 1749年
ドイツ      「ロイヤル ベルリン KPM」 1763年
デンマーク    「ロイヤル コペンハーゲン」 1774年
イギリス     「ウェッジウッド、ジャスパー」1775年
チェコスロバキア 「オルニスラフコフ(Haas & Czjzek, Horní Slavkov)」 1794年
ハンガリー    「ヘレンド」  1826年

 上記のヨーロッパの窯元に、磁器の技術が伝搬するまで約100年かかったのだ。筆者はブリュッセル駐在時、これらのほとんどの窯元に足を運び、現地の日本人の新聞に印象記を寄稿した。

 以上の通り、日本の磁器文化のヨーロッパへの影響がいかに大きかったかを述べてきた。日本は国内で、伊万里焼、萩焼、京都の清水焼など磁器の技法が伝搬し、瀬戸でも磁器が大量に生産されるようになる。筆者の先祖の16代・加藤景吉は徳川の尾張藩から許可を得て山陶屋を起業した。
 
 尾張藩から瀬戸の陶磁器を三都―江戸、京都、大阪に販売する権限を委託され、瀬戸の豪商になる。尾張藩より苗字帯刀を許され、全盛を誇る。山陶屋の加藤清助景登は1867年、瀬戸公園に陶祖・加藤四郎左衛門景正(藤四郎)の碑を建立した。

 江戸時代は日本陶磁器の歴史上、六古窯(備前、丹波、信楽、越前、瀬戸、常滑)を中心に、伊万里、萩、京焼、清水焼などの発展を遂げ、世界にも伊万里焼で紹介したように、日本ブランドが広まった時代である。まさに縄文土器の長期に形成された技術力、文化力の基層が受け継がれ、開花した時代でもあった。

<参考文献>
『日本やきもの史』 長谷部 楽爾著、美術出版社
『世界やきもの史』 荒川 正明他著、美術出版社
『かまぐれ往来』 加藤 唐九郎著、新潮社  
『我が心の旅路』 (一社)縄文道研究所・加藤 春一著


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