2024年05月12日( 日 )

愛する子どもを配偶者に連れ去られた(5)敏也の場合(補論)

記事を保存する

保存した記事はマイページからいつでも閲覧いただけます。

印刷
お問い合わせ

子どもが「自ら出ていった」状況の裏

 敏也の例でもう1点、重要な論点がある。

 この例を読んで、読者のなかには「連れ去り」という主張に疑問を持つ人がいるかもしれない。というのは、敏也の娘は妻K子に強引に連れ去られたのではなく、妻と一緒に出て行っているからだ。また、別居後に子どもたちが父・敏也と会いたがっているというのは、あくまでも敏也の主観(希望的観測)であって、義父がいう「子どもたちは敏也と会いたがっていない」というのもまったくの嘘ではないかもしれない、という疑問も成り立つためである。

 この疑問を解決するには、妻K子や子どもたちについても取材すべきであるが、(1)の後半で説明した通りそれが叶わない状況だ。よって敏也の子どもたちが実際にはどうであるかをここで明らかにすることはできない。だが、この疑問を回答不可として考察を保留することはできないと筆者は考えている。というのも、家族の問題を取り扱う上で、この疑問は家族の核心的な問題に触れているからだ。

子どもを支配する家族の力学

イメージ    家族を始めとした親密な人間関係のなかでは、人は人間関係の力学に突き動かされて行動する。家族の関係が特殊であるのは、その関係を構成する大人(親)と子どもに、力関係で圧倒的な落差があるということだ。そのため、家族間の人間関係は親の主導で形成される。その親が、子どもたちの人格や自律性を尊重して主導権を健全に行使すればよいが、家族という閉鎖的な状況では、必ずしもそうでない場合がある。

 それが問題となるのは、児童虐待を行うような明らかに暴力的な親ばかりではないケースだ。一見、暴力性がなさそうな、「優しそうな」「弱そうな」親がいる家族関係においても、より支配的な人間関係の強制力が発生する場合がある。

 たとえば、親がアルコール依存症であったり、病気がちであったり、精神的に幼かったり、一見無力に見える場合、子どもはその状況に相補的に対応して、保護者のような振る舞いをすることがある。この場合、誤解してはならないことは、たとえ保護者のように振舞っても、子どもは決して親との関係形成で主導権をもっているわけではないということだ。

 あくまでも子どもは親が主導して設定した関係性のなかで、「弱い」役で立ち振舞う親に対して相補的に保護者のように振舞う役割に追いやられているのである。そのような子どもは決して、自身の立場を改善する力も、自身の判断を反省する視点も有していない可能性がある。

 このような状況にある子どもたちが発する言葉、「お父さんに会いたくない」とか、「お父さんは悪くない」という言葉は、そのまま本人の意思として受け取ることはできない。言葉が出てくる背景として子どもに強い影響を与えている人間関係と、そのなかで子どもが与えられている役割、さらにその役割において子どもが抱いている意思、たとえば、「お母さんを裏切ってはいけない」とか、「家庭内でのお父さんの姿を他人に知らせてはいけない」などが、子どもの表面的な言葉の背後に隠れていないか注意深く見極める必要がある。

 敏也の子どもたちの場合も、材料が限られているため推測にとどまるが、母親らとの関係で役割を与えられている節が見受けられる。

 義父がたびたび敏也に対して、「子どもたちは敏也に会いたがっていない」と伝えているが、これは嘘ではなく、子どもたちが義父らに対して発した言葉として本当である可能性がある。妻K子と義父の行動や発言を見る限り、ふたりが家庭内において子どもたちの役割設定に強制力をふるっていることは想像される。

 そのような状況で、子どもたちが発する「お父さんに会いたくない」という言葉は、妻K子や義父からの都度の確認に対して子どもたちが「お母さんとお祖父ちゃんの愛情を裏切る真似はしません」という意味で、妻K子や義父に対する自身の役割をはたす目的で発した言葉であり、父親に対する思いを表す発言ではないと考える方が自然だ。

第三者介入の重要性

 敏也の子どもたちの場合、9カ月ぶりに自宅に帰ってきた子どもたちに対して、敏也が「家に帰ってきたかったら、いつでもママに⾔うといいよ」というと、娘が「⾔えるわけないやろ…」と呟いた点からして、子どもたちが自身の役割についてある程度自覚していることがうかがえる。

 しかし、親が家庭内での強制力に関心を集中する家庭は、外部に対して閉鎖的になりがちであり、ますます子どもは家族内で与えられた役割に深くとらわれてしまう。すると子どもたちは役割の一過性を忘れて、「お母さんはか弱いから自分たちが必要だ。お父さんに会えなくなってもやむを得ない」などと、永続的な自己認識を形成してしまうことがある。そのような事態に陥らないためにも、閉鎖的な家庭には自己解決の力がないため、第三者の介入が必要だ。

 ここで第三者の介入という場合、2つの意味がある。同居親の家庭が閉鎖的にならないための別居親の介入という意味と、別居親との健全な関係継続を指導・監督するという意味での公的機関の介入だ。

 ただし、介入と言っても、敏也の例では、子どもらを妻K子や義父から引き離すべきとまでいうのではない。せめて子どもらと父・敏也が断絶された状況にならないように、面会交流を確実に実施させるための指導や監督が必要ということだ。敏也の例で、家裁が面会交流の重要性を指摘していることからしても、妥当な判断であったことがうかがえる。しかし、家裁には子どもたちの権利を守るための強制力がなかった。

 今の時代は昭和のように、おせっかいな隣近所が他人の家庭内の問題に口を挟むような時代ではない。地域と断絶されても生きていくことが可能になった時代では、親は自分の一存でどこまでも子どもを閉鎖的な家庭内に閉じ込めてしまうことが可能だ。

 児童虐待の例ばかりでなく、夫婦の事情で離れて暮らすことになった親子の関係においても、別居親との面会が子どもにとって不利益となるものでない限り、同居親の一存で子どもと別居親との関係性を断絶させることがないように、子どもの健全な成育の観点から、親権をめぐる制度設計の検討が必要な時代になっている。

(つづく)

※続編の原稿は現在準備中です。続編掲載までお時間をいただきます。

【寺村 朋輝】

(4)

関連記事