情報憲法の制定でデータ危機の時代に対応を情報危機の内実と、包括的な論点の提案
アジア・インスティチュート
理事長 エマニュエル・パストリッチ
サイバー法整備や倫理の強化だけでは、情報監視と捏造がもたらす社会的リスクには対応できない。情報収集・分析・操作の技術は指数関数的に進化しており、国家や個人の道徳では到底制御不可能な領域に突入している。もはや必要なのは、技術発展に制度が追いつくための「情報憲法」の制定である。情報アクセスに三権分立を導入し、権力の濫用を防ぐ仕組みを国際的に構築しなければ、仮想の真実が現実を凌駕し、見えざる情報独裁に世界が呑まれるだろう。
情報安全の対策対象は
「道徳」ではなく「技術」
5月に可決成立したサイバー関連法案は、サイバー的脅威を未然に防ぐことで国民の通信を安全にし、デジタル化を進めて社会の基礎となるエコシステムを築くことにある程度寄与するだろう。近年、一般国民を対象にした不法なスパイ監視行為が増えているだけでなく、多くの組織がインターネットの監視技術を悪用または濫用していることは事実だ。
しかし、情報の安全とは極めて複雑な問題であり、単に法律的な次元において取り扱うだけではとても足りないのである。技術が指数関数的に発展している今日の状況を踏まえると、一時的な対策ではなく、持続的に情報の安全性と公平性を保つ制度の確立が必要だ。具体的には、時代の変化と技術の発展に従って再解釈可能な『情報憲法』を制定することだ。もし日本がほかの国より現実的な情報憲法をつくることができれば、歴史的に大変意味がある。
情報の安全を脅かす事件は、個人情報や国家機密を担当する公務員の道徳や倫理に問題があって発生する場合もある。しかし、そのような道徳や倫理への対策を講じるよりも、情報の分析・複製・捏造といった目覚ましく進化を続ける技術を詳しく探って対策を講じることが必要だ。情報濫用の事件は、政府機関が国家的に関与するというより、むしろ政府から委託を受けた企業やその内部の少数の職員たちが個別に活動する場合がほとんどである。その背景には、技術の目まぐるしい発展によってこれらの技術を利用したスパイ行為への誘惑が急速に強まっていることがある。
それに対して、単純に道徳的な基準を突きつけても、何ら効果を生まず、むしろ社会変化にともなう効率的な制度整備を後回しにすることになりかねない。そうなれば、現実的な解決法が提示されないまま、近い未来にはこのようなスパイ事件がより深刻になることは間違いない。なぜなら情報収集のための技術発達の速度は目覚ましく、現在、政府の情報当局や一部の企業だけが持つ情報技術は、遅かれ早かれ個人や小規模の組織も容易に手に入れることができるようになるからだ。
早急に必要なのは
国際的合意と構造的改革
私たちは早急に、情報革命に対する合意点を見出し、社会と政府の混乱で、当惑する時期をうまく乗り越えられるよう国際的な体系を構築する第一歩を踏み出さなければならない。そして危機に対応する実質的、長期的な新しい制度を構築しなければならない。それは決して公安調査庁やGoogleに新しい部署をつくることで解決できる問題ではない。
この危機を軽く受け止めた場合、隠密な組織が情報の収集や歪曲を通じて強大なパワーを奪取することになるだろう。政府が制度的な次元で技術変化についていけない場合、情報捏造の脅威に対応する十分な権限と力量を備えることができず、うわべだけの対策を繰り返すことになるだろう。最悪の場合、企業や政府は争いばかり起こす派閥に転落し、新しい形態の封建制度が誕生し、見えないパワーが情報を統制し、世界掌握のため暗い戦争を招くこともあり得る。
これからの10年間は、諜報や偽った情報宣伝の事件が爆発的に増加するだろう。その理由は市民の道徳水準の没落ではない。ムーアの法則、すなわち、半導体チップ1つに入るマイクロプロセッサーの数が18カ月ごとに2倍に増加する(同時にデータ保存費用は18カ月ごとに半分に減少する)という法則の通り、情報を収集、保存、共有、変更、操作する能力は幾何級数的に増加する。そのスピードが人間の制度的な適応速度よりはるかに速いため、私たち人類は、文明の存続についての深刻な問題に直面することになるのだ。
情報革命の結果もたらされた問題
これからの時代は、個人が最小限の投資で莫大な量の情報を収集して、数百万の個人情報を有意な情報として統合することが可能になる。ゴミ箱から個人情報を抽出し、道行く人たちの姿をCCTVカメラで撮影し、町を航空写真で撮影し、それらのさまざまな些細な情報を結合して系統的に整理するといった行為が、今後、簡単に行われるようになる。
顔の認証、音声の認識、音声をテキストに即座に変換する機能は、子どものいたずらのように誰でも簡単にできるようになる。手ごろなミニドローン(監視用の無人航空機)は、どこでも購入でき、個人情報を24時間収集し、分析できるようになる。何年も経たない内に、数千数百万の人たちの行動を精巧に追跡することが朝飯前になるだろう。
同時にイメージ、映像そして音声の操作も簡単になる。仮想現実の時代に暮らしている我々は、現実なのか仮想なのか区別ができないほど、精巧な形態再現(mimetic representation)をすでに見ている。仮想イベントの具体的な歴史や、仮想人間たちの伝記などをつくり出すこともできるし、前述した内容が実際に可能になる。
ある仮想の人間が、40年間の複雑な記憶(信用記録から医療記録、日記などに至るまでの記録)を保有した場合、この人を実際の人間と区別するのは難しい。それだけでなく、仮想現実がソーシャルネットワークに結合すれば、その混乱はより激しくなるだろう。本人が知らない間にフェイスブックの友達たちは、スーパーコンピューター網の統制を受け、アバターになってしまうかもしれない。
ゲノム革命と次世代技術
新たな倫理的・法的課題
情報革命の影響はこれだけにとどまらない。遺伝子操作の生物体(GMO)や、他の応用分野でも低額な費用でDNA資料の使用や悪用がなされている。現在、ゲノムシークエンシングの費用は、ムーアの法則が主張する速度よりはるかに早く低落している。1人の遺伝体をシークエンシングする費用は、2001年には86万円だったものが、現在は52万円である。
ニューキャッスル大学の教授ジョン・バーン(John Burn)を始め、多くの人たちが、地球上のすべての人間の個人遺伝子情報をあつめる“ゲノムバンク”を構築しようと主張している。これは、5年以内に簡単になされることだろうし、その恩恵は相当なものだ。しかし、誰かのDNAをチューブのなかから取り出して複製し、これをほかのDNAと結合させ、ウイルス搭載体をつくったり、簡単に購入できる臓器を製造するのに使用されると想像しよう。または、ある個人の疾病、健康度、性格のような最も私的な情報を含む遺伝体情報がコンピューターファイル形式で流出すると想像しよう。これら遺伝情報についての規範と法的規制が切実に必要なことは間違いない。
このほかにもさまざまな脅威が想定される。一部は予測可能で、一部は推測だけが可能だ。たとえば、貨幣が完全にデジタル化され、操作や変更が可能になるとしたら、貨幣の機能は深刻な問題に直面することになる。また、政府の統制範囲を超えた超小型のドローンが、諜報行為や見えない戦争を引き起こすことも考えられる。そして、次世代3Dプリンティングは、臓器複製や研究室での食肉の製造を可能にするなど画期的な突破口を約束するだろうが、同時に、生物兵器を簡単に生産する可能性をも開く危険がある。このような技術発達への対処として、新しい法的、倫理的体系は喫緊に必要である。
情報憲法の制定の肝は
国際協議による合意形成
筆者が提案するのは、冒頭で述べた「情報憲法 (Constitution of Information)」の制定である。すでに情報の収集や操作が、安全に関わる重大な論点として挙げられているにもかかわらず、現在の法令や各国政府が基礎としている既存の国家憲法はこのような問題をほとんど取り扱っていない。しかも、我々は情報危機の深刻さに気づいていない場合すら多い。なぜなら情報危機は、我々が世界を認識する手段自体を歪曲させるものであるため、ほとんど感じられないのだ。
我々は情報革命の危機に対応して国際的に拘束力のある「情報憲法」を審議する国際憲法制定会議を開催する必要がある。効力のある憲法の核心は文字でなく、一連の協議と妥協過程を通じてつくられるものなので、現時点で単純に憲法の文案を提示することは意味がない。今は憲法のなかで、そして会議によって設立された機関を通じて取り扱わなければならない包括的な論点を整理することだけが可能だ。
しかし、世の中には情報憲法の制定に反対する人たちもいる。彼らは、情報憲法が情報濫用を招く集権化された権力であって危険な形態だと批判する。しかしこのような批判は、すでに直面している危機に対してまともな認識が不足していると言わざるを得ない。なぜなら情報濫用はすでに最高の水準に達しており、必ず幾何級数的に増える危機に直面しているからだ。 この事実を前提として考えれば、まず第一に必要な対応は情報憲法の制定とならなければならない。
憲法制定の論点
公共化される個人情報
ジョージ・オーウェル(George Orwell)は、彼の未来小説『1984年』で、公に広報を担当する中央政府機関の危険を予言した。この機関の名前は、「真実省(Ministry of Truth)」であって、真実を追究しろという命令によってスターリン体制下の情報操作の手法に倣い、虚構を量産する工場として機能していた。流通される莫大な量の虚偽、および、間違った情報を正そうとする努力自体が歪曲されることの危険は、我々が最も重要視しなければならないことだろう。
情報憲法の制定にあたって大事なことは、倫理的にどうあるべきか、そして未来に対するビジョンを責任者に伝達することである。そしてもう1つ、情報憲法を制定する際に仮定しなければならないことは、デイヴィッド・ブリン(David Brin)が著書『透明な社会(The Transparent Society, 1998)』で言及したように、技術発達を考慮するときには、これからのプライバシー保護はとても難しく、かつ不可能になるということだ。逆説的に私たちが情報を公共の一部にして、その尊厳性やプライバシーを保存しなければならないということを受け入れなければならない。これは、すなわち、今後、数年内に登場する驚くべき水準の新しい情報収集、変更技術の発達を考慮するとき、ただプライバシー保護だけでは十分でないということを意味する。
情報管理の仕組みとして
三権分立による「3つの鍵」
情報の安全性を確保するための制度設計のカギは三権分立である。モンテスキューが提案した三権分立に従う憲法基盤の政府では、今までうまく運営されてきた立法、司法、行政のような政府の三権によって情報を管理することができる。これらの権力には、情報監視のため互いに違う任務と権限が付与される。政府の三権は、情報に対する互いの権力を制限するよう動機を付与して競争相手としての役割をはたすことができる。しかし、現在のグローバル情報コミュニティ、または、国際的に影響力のある大規模のIT通信企業ではこのような力の均衡はほとんど見当たらない。
このような理由で、 情報管理のための「3つの鍵(three keys)」体系を政府三権の一部として導入することが考えられる。すなわち、機微のある情報に接近できない場合、情報の正確性を保証できなくなるのでその情報への接近を許さねばならないが、三権を代表する3つのカギがすべて合った場合にだけ接近できる、という仕組みをつくることだ。三権は互いの利害関係が一致しないように存在させ、1つの機関が該当情報に接近する場合、ほかの2つの機関が許可を得なければいけないようにする。そうすれば1つの機関、1つの部署が容易に情報を乱用できない仕組みとなり、すべての情報関連活動に関して接近記録を残すことができる。
プライバシーとともに、情報の正確性と信頼性を保障するためには、複雑な制度の変更や既存の憲法体系の再解釈が必要だ。私たちは、透明性と信頼性を基盤にした新しい体系やそれを生かす核心の原則、原理を提案するため、現実的な目標を立て未来を深く考える先見の明を持つ人たちと現体制の利害関係者との間で対話を試みなければならない。 情報憲法の制定はその対話の中心的話題になるだろう。
<PROFILE>
エマニュエル・パストリッチ
1964年生まれ。アメリカ合衆国テネシー州ナッシュビル出身。イェール大学卒業、東京大学大学院修士課程修了(比較文学比較文化専攻)、ハーバード大学博士。イリノイ大学、ジョージワシントン大学、韓国・慶熙大学などで勤務。韓国で2007年にアジア・インスティチュートを創立(現・理事長)。20年の米大統領に無所属での立候補を宣言したほか、24年の選挙でも緑の党から立候補を試みた。23年に活動の拠点を東京に移し、アメリカ政治体制の変革や日米同盟の改革を訴えている。英語、日本語、韓国語、中国語での著書多数。近著に『沈没してゆくアメリカ号を彼岸から見て』(論創社)。