故郷の草原を取り戻すために 朝格吉拉図著『幻の大草原を追って』を読む

 内モンゴル自治区に生まれた朝格吉拉図氏にとって、砂漠化は遠い環境問題ではなかった。幼いころに見た草原が失われていく、故郷の風景そのものの変化だった。2026年5月刊行の『幻の大草原を追って──内モンゴルから日本へ、緑を取り戻すための留学記』は、著者が日本で環境学を学び、草原再生に向き合っていく歩みを描いたノンフィクションである。

草原を失った少年の記憶

 かつて羊を追って遊んだ草原は、いつしか砂に覆われていった。内モンゴル自治区に生まれた朝格吉拉図(ちょうかくきつり/CHAOGEJILATU)氏にとって、砂漠化は遠い国の環境問題ではない。幼いころに見た故郷の風景が失われていく、身近で切実な現実だった。

 2026年5月に刊行された『幻の大草原を追って──内モンゴルから日本へ、緑を取り戻すための留学記』は、そんな著者が故郷の再生を志し、日本で環境学を学んだ歩みをたどるノンフィクションである。貧しい村に生まれ、異国で学び、研究者として成長し、やがて草原再生に取り組む。その道のりには、留学生としての苦労、研究の壁、故郷への思いが重なっている。

 本書の出発点にあるのは、内モンゴルの草原で過ごした幼少期の記憶だ。広大な草原、羊を追う日々、家族との暮らし、夜空に広がる星。その風景は、著者にとって単なる自然ではなく、生活そのものだった。

 しかし、1970年代以降、過剰な耕作や放牧、森林伐採、気候変動などが重なり、草原は少しずつ姿を変えていく。緑は後退し、砂地が広がり、農牧民の暮らしも揺らいでいった。草原が失われることは、自然環境が変わることだけを意味しない。そこに根づいてきた生活、文化、家族の記憶までも変えてしまう。

 著者は、そうした変化を胸に刻みながら成長した。家庭の経済的な事情から進学の道も容易ではなかったが、学問への思いを捨てなかった。父から授かった「武は一時代を画し、文は万代を拓く」という言葉は、著者が学び続ける支えとなったという。

故郷を救うため日本へ

 故郷を離れ、日本へ向かう決意は、著者にとって大きな転機だった。言葉も文化も異なる国で学ぶことは容易ではない。留学生としての生活は、学業だけでなく、生活費を支えるためのアルバイト、言葉の壁、孤独との闘いでもあった。それでも著者は、日本での学びを通じて、次第に自分の目標を明確にしていく。江戸川大学で生態学や緑地環境の保全などを学び、さらに東京農工大学大学院へ進学した。故郷で起きている環境問題を感情だけで受け止めるのではなく、科学的に捉え、再生の手がかりを探る力を身につけていった。

 本書では、著者が日本の大学で学びながら、心を耕していく過程が丁寧に描かれている。故郷への思いだけでは、砂漠化を止めることはできない。必要なのは、草原の変化を正確に測り、原因を分析し、回復の道筋を探る知識と技術である。著者はそのために、環境学の研究へと進んでいく。

朝格吉拉図著『幻の大草原を追って』    東京農工大学大学院を経て、研究生として在籍した東京大学大学院では、より国際的な研究環境に身を置き、英語での論文発表や海外研究者との交流にも挑んだ。異国で暮らすだけでなく、世界の研究者と同じ土俵で議論するためには、専門知識に加えて言語の壁も越えなければならない。本書には、そうした苦闘も率直に記されている。

 その後、筑波大学大学院で博士課程に進み、2017年に博士(環境学)を取得した。長い留学生活と研究の日々は、単なる個人の成功物語ではない。著者にとってそれは、故郷の草原をもう一度取り戻すための準備でもあった。

衛星データで草原を見る

 著者の研究の核となるのが、リモートセンシングである。リモートセンシングとは、衛星や航空機から地表の情報を取得し、植生や土地利用の変化を解析する技術だ。広大な内モンゴルの草原では、地上調査だけで環境の変化を把握することは難しい。衛星データを用いれば、草原の劣化や回復の状況を広い範囲で捉えることができる。

 砂漠化の問題は、現場に立つだけでは全体像が見えにくい。どこで草原が失われ、どの地域で回復の兆しがあるのか。降雨量、土壌、水資源、放牧の状況はどのように関係しているのか。こうした問いに答えるためには、経験や勘だけではなく、データに基づいた分析が必要になる。

 著者は、リモートセンシングや地理情報システム(GIS)を使い、草原の劣化メカニズムを科学的に明らかにしようとしてきた。博士課程では、気象データや地形データなども組み合わせながら、草原がどのように劣化し、どのような条件で回復し得るのかを探った。

 この研究は、故郷への思いと直結している。単に論文を書くための研究ではなく、内モンゴルの草原再生に役立てるための研究である。どの地域に植林すべきか。どのような場所では自然回復を促すべきか。どの程度の放牧であれば草原を維持できるのか。科学的な分析は、現地での判断を支える土台になる。

 本書の読みどころは、ここにある。著者は、失われた草原への郷愁だけを語っているのではない。故郷への思いを、研究という具体的な方法に変えていった。その点で本書は、留学記であると同時に、環境再生の現場を考える入口にもなっている。

環境保全は続けられるか

 内モンゴル自治区は、豊かな草原と遊牧文化で知られてきた。一方で、過放牧や森林伐採、気候変動などの影響により、砂漠化や草原劣化が進んできた地域でもある。草原の劣化は、農牧民の生活基盤を揺るがすだけでなく、黄砂の発生や生態系の変化など、より広い範囲に影響を及ぼしてきた。

 ただし、内モンゴルの環境を砂漠化や草原劣化だけで語ることもできない。近年は、緑化政策や生態保護政策、植林、禁牧・休牧、草地管理、水資源整備などの取り組みにより、草原や植生の回復が見られる地域もある。かつて砂地化が進んだ場所に緑が戻りつつあることは、草原再生の可能性を示す動きとして正当に評価されるべきだろう。

 草原再生のためには、植林や放牧管理、水資源の確保、現地住民の生活支援などを一体で進める必要がある。木を植えるだけでは十分ではない。植えた木が根づき、地域の暮らしと結び付き、長く維持される仕組みが必要になる。

 日本でも、内モンゴルの砂漠化防止や草原再生を支援する企業、NPOの活動が行われてきた。植林プロジェクトでは、現地住民が苗木を植え、育てることで収入を得る仕組みもある。井戸の掘削による水資源の確保や、薬用植物の栽培を通じた地域産業づくりも試みられている。

 ここでも重要になるのが、科学的な検証である。植林した場所で本当に緑が回復しているのか。土壌や水分条件は改善しているのか。CO₂吸収量はどの程度見込めるのか。こうした点を客観的に確認できなければ、緑化活動は一時的な善意で終わりかねない。

 著者の研究は、こうした現場に科学的な裏付けを与えるものだ。衛星データを使って植生の変化を把握し、緑化の効果を見える化することができれば、行政、企業、住民が同じ情報を共有しやすくなる。環境保全を継続的な取り組みにするためには、感情に訴えるだけでなく、成果を測る仕組みが欠かせない。

 著者の視線は、現在だけに向けられているわけではない。50年先、100年先を見据え、後世により良い環境を残すために、改善の方法を探り続けたいという思いがある。環境保全とは、過去を批判することだけではなく、未来に責任を持つことでもある。回復しつつある草原を守り、その成果を次の世代へ引き継ぐために、科学の力で環境の変化を見極め、人と自然が共に生きられる道を探し続けること。それが、著者が本書と研究に込めた願いである。

草原再生はビジネスになるか

 本書を経済メディアの視点から読むと、もう1つの論点が見えてくる。草原再生は、環境保全にとどまらず、新たなビジネスや地域産業につながる可能性をもっている。

 その1つが、カーボンクレジットである。植林によってCO₂を吸収する取り組みは、企業の脱炭素経営と結び付く。企業が緑化プロジェクトに参加し、その成果を適切に測定・認証できれば、環境投資としての意味をもつ。ここでリモートセンシングによるモニタリングは、透明性を高める技術として重要になる。

 もう1つは、薬用植物や飼料作物などの栽培である。砂漠化を防ぎ、土地の状態を改善できれば、地域の収入源を生み出すことも可能になる。漢方薬原料となる植物や、畜産に使う飼料作物の栽培が広がれば、緑化と地域経済を結び付ける道が開ける。環境保全を持続させるには、現地の人々にとって生活上の利益があることも重要だ。

 水資源管理や節水型農業技術にも可能性がある。砂漠化防止には、植林だけでなく、水の使い方をどう管理するかが大きな課題となる。日本企業が持つ精密灌漑技術や農業機器、環境計測技術は、現地の農牧業を支える手段になり得る。

 また、再生した草原は、遊牧文化や自然景観を生かしたエコツーリズムの舞台にもなり得る。砂漠化した土地が緑を取り戻していく過程そのものが、学びや体験の場になる。観光、教育、環境保全を組み合わせることで、地域の新しい産業を育てる余地もある。

 もちろん、これらは簡単な話ではない。環境ビジネスは、理念だけで成立するものではない。現地の制度、住民の合意、水資源、収益性、長期的な管理体制がそろわなければ続かない。だからこそ、研究者、企業、行政、住民をつなぐ仕組みが必要になる。著者の歩みは、その接点を探る試みでもある。

個人史から見える環境再生の条件

 『幻の大草原を追って』は、1人の若者が異国で学び、研究者として成長していく物語である。同時に、故郷の草原をどう取り戻すかという、より大きな問いを投げかける本でもある。

 著者の人生には、いくつもの境界がある。内モンゴルと日本、故郷と異郷、遊牧文化と科学技術、個人の記憶と地球規模の環境問題。その境界を行き来しながら、著者は自分の研究を形にしてきた。

 本書が伝えているのは、環境問題は抽象的な理念だけでは動かないということだ。草原を再生するには、科学的な調査が必要であり、現地で暮らす人々の生活を支える仕組みも必要である。さらに、企業の技術や投資、行政の政策、人材育成も欠かせない。

 朝格吉拉図氏の歩みは、学問が個人の人生を変えるだけでなく、故郷や地域社会に向けて開かれていく可能性を示している。失われた草原を取り戻すことは、簡単ではない。しかし、記憶を研究に変え、研究を現場に返していく道はある。

 本書は、その道のりを静かに、しかし力強く描いている。環境保全、地域再生、脱炭素ビジネスに関心を持つ読者にとっても、示唆の多い一冊である。

【寺村朋輝】


<著者プロフィール>
朝格吉拉図
(ちょうかくきつり/CHAOGEJILATU)
朝格吉拉図 氏1980年3月8日、中国・内モンゴル自治区通遼市生まれ。家系の伝承によれば、チンギス・ハーンの第四子であるボルジギン・トルイの末裔に連なる。幼少期に父から授かった「武は一時代を画し、文は万代を拓く」という言葉を精神的支柱として、2001年に来日。東京農工大学大学院修士課程、東京大学大学院を経て、筑波大学大学院博士課程を修了し、博士(環境学)を取得した。専門はリモートセンシング、地理学、地質学、情報学。国際農林水産業研究センター(JIRCAS)や農業・食品産業技術総合研究機構(NARO)などを拠点に、気候変動、土地利用・土地被覆変化、農業生産への環境影響評価に関する研究に従事してきた。衛星データを用いて地球環境の変化を捉え、人間社会と自然環境の関係を読み解く研究に取り組んでいる。

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