NPO法人 福岡城・鴻臚館市民の会が主催する「第17期 福岡歴史観光市民大学」の第3回講座が開かれた。テーマは「仙厓義梵の禅画について」。講師には福岡市美術館の宮田太樹学芸員を迎え、「博多の仙厓さん」の名で親しまれた江戸後期の禅僧・仙厓義梵の生涯と、画業の劇的な変遷、近代以降に3度にわたって再評価されてきた経緯が紹介された。厳しい修行僧から、人々に寄り添いユーモアあふれる作品を残す画僧へ──。1人の禅僧が時代ごとに異なる顔を見せ、今なお愛され続ける理由が、豊富な作品とともに解き明かされた。
「博多の仙厓さん」を読み解く
第1回では古代の鴻臚館と福岡城、第2回では国際都市として栄えた中世博多をたどってきた本大学。今回は時代をさらに下り、江戸後期の博多に生きた仙厓義梵(せんがい・ぎぼん、1750~1837年)に光を当てた。
宮田氏が所属する福岡市美術館は、仙厓作品を200点以上所蔵する国内屈指のコレクションを誇り、2026年7月末からは館蔵品による仙厓展を予定している。宮田氏は仙厓の生涯を、聖福寺住職を務めた「百堂時代」と、隠居後に虚白院で暮らした「虚白院時代」の2つに分け、宗教家としての内面の変化と絵画表現の変遷を重ね合わせて描き出した。
美濃から博多へ、日本最初の禅寺・聖福寺の住職に
仙厓は1750年、美濃国(現・岐阜県)に生まれた。10代で出家、19歳で現在の横浜市の寺で学び、30代には東北をはじめ諸国を行脚した。転機は39歳。兄弟子の求めに応じて初めて博多の地を踏み、翌1790年、40歳で聖福寺の第123世住職に就任した。以後62歳で引退するまでが「百堂時代」、隣接する虚白院に移った63歳から88歳で没するまでの約26年間が「虚白院時代」である。虚白院は2022年、福岡市の文化財に指定された。
聖福寺は栄西禅師が開山した日本最初の臨済宗禅寺で、山門には「扶桑最初禅窟」の額が掲げられている。その第123世住職に就いたことは、禅界が仙厓に寄せていた期待の大きさを物語る。
百堂時代──修行と教化のための「説明する絵」
「百堂」は聖福寺の別称で、かつて100を超えるお堂が連なっていたことに由来する。この時期の作品は、後年の親しみ深い作風とは大きく異なり、人物の表情は厳しく、筆遣いも堅実で謹直な線を特徴とした。
48歳の作である「香厳撃竹図(きょうげんげきちくず)」は現存最古級の1点。掃除中、竹に当たった小石の音で悟りを開いた唐代の禅僧・香厳智閑(きょうげんちかん、~898年)の逸話を描く。禅僧が悟りに至った契機を絵画化した「禅機図」で、修行僧の教材としても広く描かれた。
この時期の仙厓がしばしば用いる印章「梵杜多(ぼんずだ)」も宗教的姿勢を示している。「梵」は法諱の義梵に通じ、仙厓自身を表す。「杜多」はサンスクリット語の「頭陀(ずだ)」の音写で、衣食住への執着を払い落として修行する者を意味する仏教語である。すなわち「梵杜多」とは、「私はいまだ煩悩と闘い続ける一介の修行僧である」という自己認識の表明だった。到達点の1つが「円相図」。悟りを象徴する一筆の円の周囲に長大な賛文を添え、仏教・儒教・神道・道教といったあらゆる思想が円のなかに包摂されるという「分別しない心」の在り方を説いた。
虚白院時代──「他者のための絵」への転換
63歳で住職を退き虚白院に移った仙厓は、画業において大きな自己変革を遂げる。作品は明るく親しみやすいものへと一変し、筆遣いも奔放になった。主題も禅の世界を超え、歌舞伎役者、大道芸人、犬や猫、河童、日常の道具など、市井のあらゆる情景が紙上に描き出された。
署名も「厓菩薩(がいぼさつ)」を崩した花押が多く使われるようになる。菩薩とは、行基菩薩のように利他の行いを実践する高僧に贈られた尊称である。「自分の修行のため」から「他者のため」へ。絵を描く動機が根底から変わったことを、署名の変化が物語る。
65歳ごろの観音図の賛文には「他人の為に起こす喜怒哀楽の心」との趣旨が記される。架空の歌舞伎役者を描く「尾上新七」では、この世は舞台の早変わりのように移り変わるが、大切なのは心のありようであると語りかける。宗教的な教えはもはや厳しい説法ではなく、市井の芸能や暮らしに託して伝えられるようになった。
「感じる絵」への飛躍と、日常のなかの悟り
禅の教えは「不立文字」「以心伝心」「直指人心」と表される。文字や言葉に頼らず、心から心へ直接伝えるところに本質がある。若き日の「円相図」に長い賛文を書き連ねた方法は、ある意味でこの根本原理と背中合わせだった。虚白院時代の仙厓は、その矛盾を自覚したのだろう。作品は徐々に「説明する絵」から、直感的に意味を受け取る「感じる絵」へと変化した。
到達点の1つが、70歳ごろに描いた大道芸人の図である。曲芸師が投げるには多すぎる品々に加え、天神様や寿老人、退去令の書、水までもが宙を舞い、足元には受け取り損ねた物が次々と落ちている。宮田氏は「大喜利の答えのような絵」と評した。「あり得ない」という驚きや笑いを作品と見る者が共有する体験そのものが、禅のいう「以心伝心」につながっている。
この境地を素朴に表したのが「五徳図」である。囲炉裏で鉄瓶を置く3本脚の日用品を淡々と描き、「五徳」と「如く」の音を重ね、このようにありたいと願う心の象徴だとの賛を添えた。「ちゃんちゃこ」ではわんぱくな子と困り果てた父を愛嬌たっぷりに描き、「子孫繁昌」の4文字を添えた。かつての厳格な住職の面影はなく、そこにいるのは博多の暮らしに寄り添う心優しい老僧である。
近代に訪れた3度の仙厓ブーム
仙厓の作品は、約100年の間に3度の大きなブームを引き起こした。しかも、そのたびに異なる文脈から注目され、まったく違う顔をもつ画家として受け止められてきた。
第1次(1920~30年代)は、博多出身の日本画家・冨田溪仙(とみた・けいせん)が『仙厓禅師墨蹟集』を刊行し、20年代に「仙厓和尚遺蹟保存会」を結成、虚白院の再建を実現したことに始まる。25年には博多博風会主催の「仙厓和尚遺墨展」が西中洲第一公会堂で、35年には福岡日日新聞社主催の「仙厓遺墨展」が開かれ、約300点が出品、来場者は1日1,000人を超えた。仙厓作品は「福博コレクターの必需品」と言っても過言ではないほど、地元の文化人や収集家の間で確固たる地位を築いた。
第2次(50~60年代)の舞台は欧州だった。フランス文学の研究者・評論家である竹本忠雄は仙厓の禅画を、40~50年代に広がった非具象芸術・アンフォルメルの先駆として位置づけ、ゴヤやマティスと比較しながら「仙厓は肯定に基づいた反復を行う」と論じた。63年、東京国立博物館主催の「日本古美術展」がパリで開かれた際には、フランス側の要望で仙厓や白隠らの禅画が全200点のうち124点を占めた。日本側担当者は「フランス側が見たいものと日本側が見せたいものが一致せず苦労した」と回想したが、この欧州発の評価を契機として、国内でも仙厓や白隠の禅画が「日本美術」を代表する作品として教科書に掲載されるようになった。外からの視線が、内側の価値観を書き換えたのである。
第3次(2000年代以降)は、ゆるキャラ文化の広がりのなかで再発見された。みうらじゅん氏は、ゆるキャラの条件として「郷土愛」「強いメッセージ性」「不安定でどこかドジなゆるさ」を挙げるが、宮田氏はこれに「グッズにしやすい」を加えた。仙厓の作品はいずれも満たしており、福岡市美術館のミュージアムショップで販売される仙厓グッズは、いまや美術館を代表する商品の1つである。美術を評価する言葉として「かわいい」が市民権を得たのは近年のことだが、その扉を約200年前から静かに開いていたのが博多の禅僧・仙厓だったともいえる。
時代によって異なる顔を見せる仙厓
修行僧の厳しさから人々に寄り添う優しさへ。「説明する絵」から「感じる絵」へ。1人の禅僧の内面に生じた根源的な転換は、約2世紀を経ても色あせない作品の豊かさにつながり、時代ごとに異なる顔で人々を迎え入れてきた。20世紀前半の福博のコレクターは禅僧としての修行と洒脱さを、20世紀後半の欧州の芸術家や評論家は前衛性と肯定の思想を、そして21世紀の私たちは「かわいい」という親しみやすさを、同じ作品のなかに見いだしている。
宮田氏の講義は、単なる江戸絵画史の紹介にとどまらなかった。1人の宗教者が生涯をかけて自らを解き放っていく過程をたどると同時に、地域の記憶が近代・現代を通じてどのように再生され続けるのかを考える文化史の講義でもあった。福岡市美術館では2026年7月末から仙厓の展覧会を開催予定(前期:7月29日~9月27日、後期:9月30日~11月20日。前期後期で大幅な展示替えを予定。詳しい情報は福岡市美術館HPにて随時公開。)。実物の前に立ち、それぞれの「今の目」で仙厓と向き合えば、また新たな顔を発見できるのではないだろうか。
なお、講座で紹介された仙厓作品の一部は、宮田氏が執筆した福岡市美術館ブログでも参照できる。《香厳撃竹図》《円相図》《五徳図》などを通じ、仙厓の画風と思想がどのように変化していったのかをたどることができる。
【児玉崇】








