結論から述べる。服部知事の頭には「自身が権力者」という自覚がまるでない。「蔵内ボスの命令で福岡県運営のトップ『福岡県事務局長』を任されているのだから私は悪いことなどしていない」という認識しか持ち合わせていない。だから自ら辞任表明はしないであろう。「私はボスの意向を汲んで動いてきた。だから責任は皆無」という理論武装を行っているようだ。
権力維持は儚いもの
ついひと昔前の話。筑豊に三木清という県議会議員がいた。1979年4月当選、以降2003年まで6期県議を務め上げた。その間、福岡県議会議長を1989年5月22日から91年4月29日まで2年間務めた。この当時、議長任期は2年であった。そして自民党県議団のトップの権力に酔いしれ始めた。新年挨拶で自民党議員たちが自宅へ挨拶にいくことが慣例になっていた。
当時、ある自民党県議と忘年会を行ったが、この議員が次のようにぼやいていた。「三木先生の自宅へ新年挨拶に行かなければならない。その日はまる1日使ってしまう」と。このぼやき議員は柔道6段、道場も開いていたのである。筆者は「カーペットが敷いてある部屋で、大外刈りをかけて叩きつけてやればよいではないか」と言ってやった。三木氏が議長のポストを外れて35年が経過した。「三木清」という政治家のことを知る人も少なくなった。権力というものは儚いものよ。
蔵内氏も権力者としてゴールテープが近づいてきた
三木先輩が絶頂のとき、蔵内勇夫氏はまだ自民党県議団では中堅に位置する段階であった。そのころから県政の権力を握る野望に燃えて徹底的に研究していたと思われる。その結論は「知事が言いなりになるような組織づくりこそが権力を握る道」ではなかったか。あとで述べるが、実質的に蔵内氏は「知事そのものを握る」ことによって県政における己が地位を不動のものにした。蔵内氏の経歴は過去記事『【蔵内“県政”を暴く(1)】蔵内勇夫さん、もう辞めたら』を参照のこと。
だが今や、蔵内氏の権勢にも終着点が近づいてきた。地元からも「銭の亡者」という痛烈な批判を浴びている。筆者は本人から、来春の福岡県議選には立候補しない意向であることもきいた。さらに身内を立てたとしても勝てる見込みは皆無である。となると「政治家として名門・蔵内家」が途切れてしまう。蔵内家の親戚からは蔵内県議会議長に対して「養子入りした勇夫が政治の蔵内家を潰した張本人」と汚名のレッテルが貼られるだろう。嗚呼、無常。権力を握れば、いずれは転落する自明の法則だ。にもかかわらず「俺の権勢は永遠だ」と錯覚した人間には、致命的なしっぺ返しが待っている。
出所:九州の自立を考える会ホームページ
アホな”実質”野党の体現者・原中誠志県議会議員
その長期政権に対して、まっさきに異議申し立てをすべきは野党であるはずだ。ところが、ここにも福岡県政をめぐる情けない現実がある。具体的に述べるとしよう。立憲民主党福岡県連幹事長・原中誠志(まさし)県議会議員が最近、県政の現状を憂慮する有権者らの面前である発言を行った。参加者約100名のある研究会。筆者もこの会の常連だ。そこで原中県議は涼しい顔で「今後とも服部知事を支えて県政を健全化させよう」といけしゃあしゃあと呼びかけたのである。筆者が見た限りでも参加者の10名程度は、この発言に対して青筋を立てていた。果たして原中氏は、服部県政をこのまま持続すべきものと考えているのだろうか?
前回25年の知事選では、自民、立憲、国民民主、公明、社民は相乗りで服部知事(無所属)を推薦した。しかし、服部氏は実質的に自民・蔵内氏の傀儡なのだ。そのことをまるで県民が知らぬとでも思って、自分たちが実質的な野党であるとの自覚を忘れた政党には、まるで用がないというものだ。
過去の知事はみな豪傑、誰も県会議員の言いなりではなかった
服部誠太郎知事にいたるまでの歴代福岡県知事をリストアップした。4代前まで遡って知事たちを振りかえってみよう。公選第6~9代目福岡県知事の亀井光氏は4期16年務めた。辣腕を振るって現在の東公園ゾーンに県機能を移した。そのときの強引な移転政策に県民が怒った。あまりの強引さに危機感を感じ取った県民は、次に学者(九大教授)・奥田八二氏を選択した。亀井知事は県議会議員ごときに指示を受けるはずもない人物だった。エリート国家公務員である亀井氏はプライドの塊の人物であった。
奥田八二知事も九大教授時代に大学立法法案をめぐって学生たちが学内を占拠していた際に機動隊を導入して制圧する辣腕を発揮した。この奥田氏も県議会議員ごときの指示に従うことはあり得ない。次の麻生渡氏は4期にわたって知事運営を束ねた。この時点で県職員であった服部氏は麻生氏のお目にかなったという話がある。つづく小川洋氏も官僚出身であった。癌で命を失ったが、この人もまた、県政では我が道を貫いた。
蔵内氏、時機到来と読み勝負に出る
福岡県の幹部職員だった服部氏は、一度たりとも「俺が知事になってやる」と野心を抱いたことは無かっただろう。だが、小川知事の急逝という事態に直面した。そのような状況から「副知事であった服部氏が知事に担がれるのは当然」と考える人もあるが、これは乱暴な説というものだ。県職員として実務をこなすことと、県政を指導できる見識を持ち合わせることはまったく別の話である。できることはあくまでも、有能な運営=事務局長としての能力発揮にとどまるであろう。「服部知事誕生の背景には“人事の働き”があった」と見るのが自然である。
結論に近づいてきた。長年、権勢を持続させる方法についての学びを積み上げてきた蔵内氏は、「服部氏を知事に仕立てれば与しやすし」と判断して行動に移した。その結果、服部知事が誕生したのである。そしてこの5年余、知事の権力を都合よく利用する蔵内体制が打ち立てられていたのである。その体制も今や内部から崩壊の段階を迎えた。
往生際の悪さで最低の結末という泥を被る服部誠太郎氏
このシリーズで筆者は服部知事に対して、「蔵内議長が辞任すれば貴方の自力で県政を運営することは難しい」と助言をおこなった。しかし、当記事の冒頭で述べたように服部知事には悪びれた様子はない。来年、地方選挙の結果が出るまで知事職に居座るであろう。自民党の県議会議員数が大幅に減る。県議会で「服部知事糾弾」の声が高まり、県政運営に支障が出る事態に追い込まれる。その時期まで知事ポストに執着することは間違いないであろう。はたして福岡県民は優しく愛情を注いで服部知事の動向を見守るのであろうか。
筆者は民主党福岡県連の原中幹事長みたいな支援姿勢を取ることは絶対にない。








