西郷隆盛、最後の敗走路をたどる~田原坂から美々津、西米良、そして城山へ(前)

 西郷隆盛を中心とする薩摩軍と明治政府軍が激突した1877(明治10)年の西南戦争では、鹿児島を発した薩摩軍は熊本へ進攻したものの、熊本城を落とすことができず、田原坂などで政府軍との激戦を繰り広げた。その後、戦局は次第に政府軍側へ傾き、薩摩軍は人吉から宮崎方面へ退却。各地を転戦して延岡まで北上すると、和田越での決戦に敗れ、最後は九州山地を越えて再び鹿児島へ戻ることになる。今回、西郷軍がたどった道筋を意識しながら、美々津、西米良村、そして鹿児島の城山、西郷隆盛終焉の地、南洲墓地を訪ねた。約150年前、西郷たちはなぜこの道を進み、最後に故郷・鹿児島へ戻ったのか。その背景を知るうえで、まず押さえておきたいのが田原坂の戦いである。

戦局を変えた田原坂

 西南戦争が始まったのは1877年2月。鹿児島を出発した薩摩軍は熊本へ進み、政府軍が守る熊本城を包囲した。しかし、熊本城を落とすことはできなかった。一方、政府側は熊本城の守備隊を救援するため、北から大軍を南下させた。これを阻止しようとする薩摩軍との間で激しい戦闘が始まる。その最大の激戦地となったのが、熊本市北部の田原坂だった。

 3月4日から20日まで、実に17日間にわたって攻防が続いた。田原坂を含む熊本県北部では、熊本城救援のため南下する政府軍と、それを食い止めようとする薩摩軍が激突。政府軍は総攻撃を繰り返し、砲台からの側面攻撃なども加え、3月20日にようやく田原坂を突破した。

 西南戦争全体では政府軍約6万人、薩摩軍約5万人が動員され、両軍合わせて約1万4,000人が命を落としたとされる。そのなかでも田原坂は最大の激戦地だった。現在も古戦場には戦闘の痕跡が残り、田原坂西南戦争資料館では「弾痕の家」などを通じて当時の激戦を知ることができる。田原坂の陥落だけで西南戦争の勝敗が決したわけではない。しかし、熊本城を攻略できず、北から進む政府軍を田原坂で阻止することにも失敗したことで、薩摩軍は次第に戦局の主導権を失っていく。

 ここから、西郷軍の長い後退が始まっていった。

熊本市田原坂西南戦争資料館、出所:熊本市HP
熊本市田原坂西南戦争資料館、出所:熊本市HP

人吉から宮崎へ

 熊本方面で劣勢となった薩摩軍は南へ退き、4月後半には人吉方面へ入った。その後も戦局を立て直すことはできず、宮崎県内へ移動する。小林、宮崎、佐土原、高鍋、美々津などを経て北上し、8月には延岡へ進出した。

 今回訪れた美々津は、日向灘に面した静かな町である。現在の穏やかな町並みから、約150年前に敗走する薩摩軍がこの地域を通ったことを想像するのは容易ではない。しかし、田原坂からの流れを頭に入れて美々津に立つと、その意味は変わってくる。

 熊本で政府軍の進撃を阻止しようとしていた薩摩軍が、数カ月後には宮崎県を北へ移動しながら追撃を受ける側になっていた。美々津は、西郷軍の戦況が大きく変わっていった過程に位置する土地なのである。

 そして、その先の延岡で、西郷軍は再び政府軍との大きな決戦を迎える。

和田越、最後の大決戦

 1877年8月15日、延岡北方の和田越で、西郷軍と政府軍が激突した。延岡市によると、西郷率いる薩摩軍は約3,500人。これに対して、山県有朋が指揮する政府軍は約5万人に上った。圧倒的な兵力と物量の差を前に薩摩軍は敗れ、北川方面へ退却した。延岡市は和田越を「薩摩軍と官軍の最後の激戦地」と位置づけている。

 西郷自身が前線で指揮を執った戦いでもあった。戦闘は午前7時ごろから始まり、午後3時には西郷らが戦場から退却したとされる。

 田原坂と和田越を比べると、西郷軍が置かれた状況の変化がよく分かる。3月の田原坂では、政府軍の南下を阻止し、戦局を自らの側へ引き寄せようとしていた。それから約5カ月。和田越では、熊本から宮崎へと後退を重ねた末に、政府軍の大軍を迎え撃つ状況にまで追い込まれていた。

 田原坂が戦局の大きな転換点だったとすれば、和田越は「薩摩軍」という組織が軍隊として戦い続けることが困難になった決定的な局面だった。

(つづく)

【内山義之】

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