2024年04月23日( 火 )

No Charity, but a Chance!(前)

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(福)太陽の家 副理事長 山下 達夫 氏

 2016年のリオデジャネイロ・パラリンピック、陸上男子1,500mT13(視覚障害のクラス)で、双子ランナーであるアブデラティフ・バカ(アルジェリア)がパラリンピック新記録で優勝した。しかし、このレースでは優勝タイムよりも話題になったものがある。それは双子の弟で、4位入賞をはたしたフォーダ・バカまでの4人(1位~4位まで)が、同じリオデジャネイロ・オリンピックで金メダルを獲得したマシュー・セントロウィッツ(米国)を上回るタイムを記録したことである。
 日本パラリンピックの父といわれる中村裕博士は「健常者、障がい者と差別のない社会」の実現を目指して「太陽の家」を創設した。大分・別府に(福)太陽の家を訪ね、 山下達夫副理事長・三菱商事太陽(株)取締役会長に聞いた。

障がい者、外国人、健常者のダイバーシティな街

 ――昨日市内を散策して、別府が「ダイバーシティな街」であることがよくわかりました。また、別府における太陽の家の存在の大きさにも驚いています。まず、太陽の家のこと、創設者である中村裕博士について教えていただけますか。

 山下達夫氏(以下、山下) 別府市の人口は約12万人で、約10%が障がい者です。また、立命館アジア太平洋大学(APU)などがあり、その関連の外国人が約5%います。このように、障がい者、外国人、健常者が入り混じった、文字通り「ダイバーシティな街」は日本では、ここだけでしょう。私は、国内、海外問わず出張しますが、別府ほど障がい者に優しい街はないと実感しています。東京では今日でも、車椅子に乗車拒否があります。しかし、別府ではまったくありません。これもひとえに、全国で初めて車椅子の市会議員になった吉永栄治氏(元・太陽の家事務局長)など、先達の尽力の賜物と思っています。

外国人選手は、競技終了後に東京でショッピング

 「太陽の家」は中村裕博士によって1965年に創設されました。中村博士は九州大学医学部を卒業、同大の整形外科医局に入局し、当時としては未開の分野であった医学的リハビリテーション研究の道に進みました。国立別府病院整形外科医長であった1960年に、英国のストーク・マンデビル病院に留学、ルードヴィヒ・グットマン博士に師事します。グットマン博士との出会いが、その後の中村博士の一生に大きな影響を及ぼすことになります。

 当時、脊髄損傷患者の場合、日本では退院まで数年かかっていました。しかし、グットマン博士の患者は退院まで約半年だったことに強い衝撃を受けます。パラリンピックの父ともいわれるグットマン博士はリハビリの一環として強くスポーツを推進していたのです。

 中村博士は帰国後、リハビリの一環としてスポーツを推進することを各方面に訴えます。
 しかし、「障がい者を見世物にするのか」「障がい者が怪我したら誰が責任をとるのか」など多くの批判を受けました。約50年前の日本では、障がい者が家の外に出ることはほとんどなかったからです。しかし、博士はその後も、障がい者の社会参加、とくに自立とスポーツを推進していきます。

 1964年の「東京パラリンピック」で中村博士は選手団長を務めます。日本選手団約70名のほとんどは医師・看護婦付きで参加、競技終了後は病院に戻りました。しかし、外国人選手は皆自立しており、競技終了後は東京でショッピングを楽しみました。その様子を見た日本選手団の1人から、博士に「私たちも欧米の選手のように自立したい」という申し出があり、翌年に「太陽の家」が創設されることになります。

200を超える企業を回るが好ましい返事はなかった

 ――日本の環境と外国の環境とは大きな違いがあったのですね。その後、太陽の家は今日までどのように歩んできたのでしょうか。

山下 達夫 副理事長

 山下 太陽の家は14名(障がい者7名、健常者7名)で創設されました。当初の仕事は、地元の名産品(竹細工、しいたけの袋詰めなど)を扱う家内制手工業でした。それでは、自立が難しいので、中村博士は200を超える企業を回ります。しかし、CSR、特例子会社という言葉が存在しない時代で、好ましい返事は得られませんでした。

 そんな時、中村博士は、オムロンの創業者立石一真氏に出会います。立石氏は博士の熱意に共感、赤字覚悟で共同出資会社(現「オムロン太陽」の前身)を創設しました。結果的に同社は1年で黒字を計上して納税しました。

 その後、同じように中村博士の熱意に共感した、ソニーの創業者、井深大氏が現在の「ソニー・太陽」を、ホンダの創業者である本田宗一郎氏が「ホンダ太陽」を創設します。中村博士の「手足にハンディがあっても、頭脳労働ではハンディにならない」という言葉を受けて、モノづくりでない「三菱商事太陽」も創設されました。現在、太陽の家の共同出資会社は6企業(オムロン、ソニー、ホンダ、三菱商事、デンソー、富士通エフサス)8社になっています。

うまく役割分担ができるようになればいいと思う

 ――1995年に富士通エフサスとの共同出資会社「富士通エフサス太陽」ができてからは、共同出資会社はできていません。もっと多くの企業がこのノウハウを分かち合う必要があると思いますが、何か理由がありますか。

 山下 現在では法律が改正になり、福祉法人と企業との共同出資会社はつくれないことになりました。しかし、(福) 太陽の家 副理事長と三菱商事太陽(株)取締役会長を兼務した私の経験から言わせていただければ、共同出資会社はとても良いスキームです。 今、何とかもっと増やしていきたいと各方面にお願いしています。それは、障がい者雇用は福祉法人だけでも、また企業だけでも乗り越えられないハードルがあるからです。

(つづく)
【金木 亮憲】

太陽の家
 大分県別府市亀川に本部を置く(福)。1965年に医師中村裕によって創設。作家の水上勉(「太陽の家」を命名)や評論家の秋山ちえ子の支援もあって、オムロンの立石一真、ソニーの井深大、ホンダの本田宗一郎らの実業家の理解を得、共同出資会社を設立、障がい者を雇用し、通常の工場と同さまの製品の生産を行う。障がい者が施設内で閉じた生活を送るのではなく、地域と積極的に関わることを目指している。別府市の太陽の家内にあるスーパーマーケットや銀行の支店、体育館、温泉などの施設は地域の住民も利用でき交流の場にもなっている。

 
(後)

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