2024年04月26日( 金 )

人類の未来と日本(1)

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 一年ほど前のことだ。以前勤めていた大学の教え子で20代後半の男性から、いきなりメールがきた。卒業後数年経ち、その間一度も会っていない人間からのメールだ。何だろうかと不安がよぎったが、内容は単純なもので、「人類の今後」を知っておきたいというのである。

 なぜ「人類の今後」なのかといえば、人工知能の発達がすさまじいからだという。人工知能が人間の脳を追い越すのではないか、と。

 よくある問いで、多少がっかりした。それでも考えて、以下のように答えた。
 人間の脳は生物としての生存の欲求に発してはたらいており、その出発点は「情動」(emotion)であるが、人工知能には情動が欠けるので、最終的には人間の脳には追いつかないだろう。そういう答えだった。

 しばらくたって、人工知能の草分け的存在のアレグザンダーという人の本を読んだ。すると、「人間の意識の要件をすべて満たす機械をつくれる」と書いてある。その要件のなかには、「情動」も入っていた。機械が情動をもつ?喜怒哀楽をもつ?考えられないことだ。

 しかし、実際に人工知能の開発に携わっている人たちは、人間の脳の仕組みをそのまま応用すれば、どうやら「情動」までももつ機械をつくることができると考えている。となると、私がメールで書いた答えは安易に過ぎたことになる。

 しかし、それでも人工知能と生物としての人間の脳とは異なるはずだ。そう思って、エデルマンという脳科学者の本を読むと、こちらでは相変わらず「コンピュータと脳は異なる」というテーゼが固持されていた。すなわち、コンピュータは同じものを2つつくれるが、人間の脳はどれもが唯一無二のもので、2つとして同じものはないというのだ。

 脳には「可塑性」といって、粘土のようにいろいろなかたちに発展できる性質があるといわれる。経験するたびに、新たな情報が入ってくるたびに、それに対応して自己形成するのだ。2人の人間が同じ経験をしても、受けとる情報がまったく同じというわけではない。従って、2人の脳は決して同じにはならない。もちろん、そこにはDNAも関係してくる。

 しかし、人間の脳には人工頭脳にはない可塑性があるなどと思うのは素人であって、最近は人工知能も可塑性をもち始めていると専門家はいう。つまり、学習能力が著しく向上し、経験を蓄えて知力を未知の領域にまで拡大させることができるようになっているというのだ。人間の脳とのちがいはどんどん小さくなっている。

 人工知能には、いわゆるシンギュラリティ(singularity=特定の問題の解決に傑出していること)がある。ある問題の解決法をセットしておけば、計算能力が人間よりはるかに高いので、特定の問題解決を私たちよりはるかに正確かつ迅速にできてしまうのだ。囲碁やチェスを名人と対等に戦える人工知能の存在を知っている人は多いだろう。

 そうなると、人工知能にできないのは特化していない領域での問題解決ということになるのだろうか。総合知において、私たちは機械に勝るのだろうか。

 今のところ、人工知能よりは人間の知能のほうが総合力はありそうに見える。しかし、その総合力も一種の特殊能力として設定してしまえば、やがて人間の脳と遜色のないものになるだろう。

 以上から、人間の脳と人工知能はいたちごっこをしていると見るべきなのだろうか。そうではないだろう。人工知能が人間の知能を上回る局面がどんどん増えていき、ついに地位の逆転が起こる日がこないともかぎらないのである。

 「人工知能をつくるのは人間ではないか!」という声がしばしば聞こえる。「人間が造ったものが、人間を超えることなどできるものか」と。
しかし、20世紀の科学技術史をふりかえって見れば、人間が造ったものが人間をはるかに超えてしまっている事例はいくつも見つかる。機械文明が発達したのは19世紀においてであるが、それ以来、機械の威力が人間を圧迫し、人間が機械を使っている時代は終わり、機械が人間を使う時代になってしまったといえそうなのだ。

 この立場の逆転は、人工知能の場合にも当てはまるだろう。私たちは、人工知能という主人に仕える下僕となるのかもしれない。

(つづく)
【大嶋 仁】

<プロフィール>
大嶋 仁(おおしま・ひとし)

1948年鎌倉市生まれ。日本の比較文学者、福岡大学名誉教授。 1975年東京大学文学部倫理学科卒業 1980年同大学院比較文学比較文化博士課程単位取得満期退学。静岡大学講師、バルセロナ、リマ、ブエノスアイレス、パリの教壇にたった後、1995年福岡大学人文学部教授に就任、2016年に退職し、名誉教授に。

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