2024年04月24日( 水 )

内田は無罪か?日大アメフト事件に見る「日本の法律は世界の非常識」(2)

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青沼隆郎の法律講座 第19回

証拠論の濫用

 法律的真実の乱立を可能にしているのが証拠に関する稚拙な学問体系(論理体系)である。証拠という術語の濫用と言ってよい。ちなみに証拠といわれる術語を羅列すると、物的証拠、状況証拠、行動証拠、供述証拠、伝聞証拠、直接証拠、間接証拠、判決証拠、などである。

 とくに素人には理解しがたい証拠で裁判官が多用・濫用するのが「弁論の全趣旨」という証拠である。これは判決の理由に掲げられるからその法理学的性質は証拠にほかならない。裁判外の通常の生活で多用される便宜な術語の「総合的」という証拠と同一のものである。1つひとつの証拠を総合した全証拠を総合的に判断する、という意味では証拠の総合体を証拠としたものである。そのような総合的判断なるものが全員共通して同一の結論(判断)に達するとの論理的保証はまったくない。これではもはや証拠そのものの本来の語義を逸脱したもので、証拠ではないと言わざるを得ない。判決・判断の理由とすることはできない。

証拠に関する重要な概念

 上述したように証拠の概念は多種多様である。そこで、証拠そのもの、形容詞のつかない証拠の定義が必要である。

(1)証拠の定義                           

 証拠とは、人間が認識しうる外界の存在物で、何らかの事実との間に経験的に因果関係をもつと判断しうるものすべてをいう。そしてそれは実際には人間の脳内に記憶として存在する経験則により判断される。従って、すべての証拠は論理的には対等である。

 たとえば物的証拠と供述証拠との差異は再現性・検証性、つまり客観性に差異があるに過ぎない。その過度の強調の誤りについては後述する。そもそも物的証拠が存在しない状況について故意に物的証拠を求め、それが存在しないことを奇貨として、証拠がないと判断する類の似非証拠論の横行である。

(2)証拠能力の概念

 法律的真実を議論する場合、自然科学にはない「証拠能力」の概念が極めて重要である。これは証拠の「証明力」概念とはまったく異なるものである。この証拠能力の概念は刑事裁判においてとくに重要なもので、法の支配、とくに適正手続条項(デュー・プロセス・オブ・ロー(due process of law)の概念を抜きには語れないもので、民主主義制度には不可欠の基本概念である。

 具体的な例で示せば、捜査官憲が違法な手段で獲得入手した証拠はそもそも証拠としてはならないとする法原則である。不当に長い拘束の結果得られた自白の証拠能力は否定される。違法収集証拠ともいわれる。この具体例も警視庁の内田無罪論の基礎にあることについては後述する。

 民事裁判において公序良俗に反する契約は無効とされることも、証拠法の側面から見れば、違法な契約の証拠能力を否定したものと理解できる。

(3)証拠の不存在と証明力の不存在の混同使用

 法律的真実には故意にこの混同が使用される。証拠の証明力とは証拠の客観的意味がもつ要件事実との論理的関係(因果関係)の強弱であるが、それがあたかも証拠そのものが存在しないかの如き表現にすり替えられる。

 その実は単に、当該法律家が証拠の持つ客観的意義を完全否定したい意図の下に表現した「詭弁」の一種に過ぎない。証明力自体は客観的評価であるべきであるから、「証明力がない」といえば、必ずその判断の当否が問題となる。それよりも「証拠がない」といえば、国民を煙に巻くことが容易だ。警視庁による内田無罪論の根拠説明で「内田監督が指示したとする証拠がない」と公表した意味には、悪意や重大な問題が含まれている。

(つづく)

<プロフィール>
青沼 隆郎(あおぬま・たかお)

福岡県大牟田市出身。東京大学法学士。長年、医療機関で法務責任者を務め、数多くの医療訴訟を経験。医療関連の法務業務を受託する小六研究所の代表を務める。

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