2024年05月06日( 月 )

本田宗一郎のDNAと決別~「エンジンをつくらないホンダ」はどこへ行くのか(中)

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 ホンダ(法人名:本田技研工業(株))は、創業者・本田宗一郎の「エンジン一筋」のDNA(遺伝子)と決別する。本田宗一郎のDNAを引き継ぎ、長年、ホンダが挑戦してきた世界最高峰の自動車レース、フォーミュラ・ワン(F1)から撤退。2021年が最後のレースとなった。撤退の理由は自動車用エンジンをつくらないからだ。

「創業者の本田宗一郎氏が悲しむのではないか」と株主

電気自動車 イメージ

 ホンダは21年6月23日、東京・港区のホテルグランドニッコー東京台場で株主総会を開いた。総会はオンラインで中継した。

 三部敏弘社長は就任直後の記者会見で2040年までにガソリンエンジン車の新車販売をゼロにして、電気自動車(EV)など走行時に二酸化炭素(CO2)を出さない「脱エンジン車」を宣言した。

 株主からは脱エンジン車宣言について「創業者の本田宗一郎氏が悲しむのではないか」との質問が出た。三部社長は「50年にカーボンニュートラル(CO2排出量をプラスマイナスゼロにすること)を達成するのが目標だ。EVと燃料電池車(FCV)を本命にしつつ、水素を使った合成燃料の研究も進める」と答えたと日経や産経が報じた。

 EVには異業種も幅広い企業が参入しているが、「どんな会社でもそう簡単につくれるとは思わない。勝ち残っていきたい」と述べたという。

 また、株主からエンジン開発継続の可能性について問われると、三部社長は否定しなかったものの、「本命」はEVとFCVだと強調したそうだ。

 純粋なエンジン車だけでなく、エンジンと電池を併用するハイブリッド車(HV)にも見切りをつける。

 創業者の本田宗一郎は、エンジン一筋で、世界を疾駆した。しかし、ホンダは、脱エンジンに方向転換したのである。電動化の流れは止めることはできないとはいえ、これほどあっさり、創業者の「エンジン一筋」のDNAを切り捨てていいものか、首を傾げざるを得ない。

二輪のオリンピック「英マン島」レースで完全制覇

 本田宗一郎は1906(明治39)年11月17日、静岡県磐田郡光明村(現・浜松市)の鍛冶屋の長男に生まれた。自動車修理工場の小僧から身を起こした宗一郎の天才ぶりは戦前、近隣に鳴り響いていた。特許の山を築き、日本楽器製造(株)(現・ヤマハ(株))社長の川上嘉市が「日本のエジソン」にたとえるほど才気にあふれていた。宗一郎は「おれが作れないものはクモの糸ぐらいだ」と豪語している。

 「世界一の自動車をつくりたい」という途方もない夢を抱いた彼は戦後まもない、1946年、本田技研工業(株)を設立。払い下げの通信機用エンジンを付けた自転車バイク、通称「バタバタ」をつくり始めた。騒々しい音、湯たんぽの燃料タンクで、一世を風靡した。

 大きなアドバルーンを上げて、その目標に向かって全力疾走するのが宗一郎流だ。1954年、二輪車のオリンピックといわれた「英マン島T・Tレース」への出場を宣言した。

 このときは、業界の物笑いのタネとなったが、61年、マン島レースを完全制覇するという快挙を成し遂げ、世間を見返した。

通産省の猛反対をはねのけ自動車に進出

 「世界のホンダ」という名声が定着すると、すかさず、永年、温めてきた四輪車進出をぶちあげた。宗一郎の前に、立ちはだかったのは、通産省(現・経済産業省)である。通産省との大喧嘩が、宗一郎の起業家人生のハイライトである。

 62年、通産省は乗用車の貿易自由化を前にして、国際競争力をつけるため、「日本の自動車メーカーは2、3社でいい」と、新規参入を許さない「特定産業振興法」の成立を急いだ。

 宗一郎は、この時ほど腹が立ったことはなかったという。

「バカヤロー!おまえたち官僚が日本を弱くしてしまうのだ!」

 宗一郎は、通産官僚にこう啖呵を切って、通産省に真っ向勝負を挑んだ。「戦争時代じゃあるまいし、私ゃ国のためには働かないよ。自分のために全力で自動車をやりたいんだ」(『ホンダ50年史』から)。

 以前から進めていた四輪車の開発を、通産省からの中止要請にもかかわらず続行し、63年の夏から秋にかけて、軽四輪トラックと小型スポーツカーを相次いで発売した。四輪車に進出すると同時に、技術の頂上作戦として、自動車レースの最高峰F1(フォーミュラ1)レースへの参加を宣言。F1に参戦することによって、世界に「ホンダは四輪メーカーにふさわしい会社だ」と認知させる作戦だ。そして65年、いきなり初優勝した。

(つづく)

【森村 和男】

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