【追悼文】児玉悦子さんを偲んで

 脊振の自然を愛する会を立ち上げた数年後(2012.6)、佐賀市富士町下無津呂にある久保田産婦人科医の別荘で児玉直・悦子夫妻にお会いしました。久保田史郎先生とは、私の写真集『脊振讃歌』が縁で交流を深めました。写真集の表紙の扉に4名の言葉が添えられています。

 その言葉を添えてくれた親友の1人(元ソニーファイナンス社長)が久保田先生の出身地の唐津で住まいも近く幼馴染、かつ実家は共に病院経営でした。私の写真集をたまたま手にした久保田先生からぜひ会いたいと電話があり、後日、百道パレスで会いました。

 そんな縁があり、親友と久保田先生と私の活動を基に脊振の自然を愛する会を立ち上げました。その別荘でお会いして脊振の自然を愛する会の活動を伝えると、ご夫婦それぞれからご寄付をいただきました。

 脊振山系に世界的なリニアコライダー(超高エネルギーの電子・陽電子の衝突実験を行うため、国際協力によって設計開発が推進されている加速器)を誘致する活動が、九州電力の松尾会長の音頭で始まりました。

 その誘致活動に関する記事を書いて欲しいと児玉会長から頼まれ、K記者が訪ねてこられました。そしてデータ・マックスの紙面での記事になりました。

 2014年9月27日御嶽山が突然爆発し50数名もの登山者がなくなりました。御嶽山が爆発するひと月前、私は後輩と北アルプスの奥穂高岳(3,190m)から御嶽山を眺めていました。私の70歳の古希登山でした。眺めたばっかりの山で小学生を含む尊い犠牲者が出たのに心を痛めていました。記者を通じ、「御嶽山のことを書いてほしい」と依頼があり「NetIB News」に記事を書き上げました。

 その後、「昼食をともにしませんか」と児玉会長から電話があり、ホテルオークラでご夫婦と食事をご一緒しました。奥さまは暖かい目で私を見ておられました。児玉会長から「原稿料を払うから脊振の記事を書いてくれんね」と切り出されました。私はつたない脊振の四季折々の花や自然の記事を投稿し現在に至っています。

 ある日、奥さまから「我が社の忘年会に出てくれませんか」と電話がありました。ちょうどワンゲルの同期会で京都にいた時でした。突然のことで驚きましたが、忘年会の期日に予定があり欠席しますと伝えました。

 その後も毎年、お誘いがあり一度だけ出席しました。参加すると社員以外は専属の記者と私だけでした。奥さまは私には時々、「霊が現れるのですよ」と言われました。周りから見れば変人と思われていたような口振りでした。「いや、時々そういう時もありますよ、私も霊を体験してことがあります」と告げると奥さまは安心されていました。

 それからも忘年会、わらび座公演とたびたびお誘いをいただきました。また東久邇宮国際文化表彰記念会にも招いていただきました。1年半前の「最後の晩餐をしよう」とお誘いがあり、東中洲の焼肉店で出版社のA、K記者と奥様とともに食事を楽しみました。

 奥さまはたくさん食べたいけど食事が喉にと通らないと、1口か2口しか食べられていませんでした。児玉会長から「コロナの後遺症たい、俺がうつした」と経緯をうかがいました。お土産に非常食となるパンを奥さまからいただきました。

 奥さまからは写真集「すばらしき脊振の四季」のご支援もいただきました。今年2月18日の、脊振の自然を愛する会のスタッフジャンバーのサイズ確認のLINE交信が最後となりました。

 いま思えば「最後の晩餐」の意味もわかります。葬儀で、痩せられ小さくなられたご遺体に深く頭を下げご冥福をお祈りしました。物静かで心暖かい奥さまでした。英彦山の土産として奥さまからいただいた小判のお守りは大切にしております。

 時々、物静かな奥さまの笑顔が浮かんできます。

 児玉悦子様 お世話になりました。
 ご冥福をお祈りします。
 合掌

池田友行

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