2024年04月19日( 金 )

【巨大地震に備える(7)】東海道五十三次、宿場の拠点は駿府・遠江

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 最終回となる今回は東海道五十三次の宿場ビジネスにおける駿府・遠江(現在の静岡県)の隆盛ぶりについて紹介しよう。
 浜松市と静岡市を車で走った際に懐かしい地名を目にした。藤枝市だ。思わず必殺仕掛け人の「藤枝梅安」を思い出した。藤枝市は静岡市の西約20キロに位置している。
 そこから、さらに車を走らせると「掛川」「袋井」と、馴染みのある地名を目にすることができた。これらの場所は高台にあり、江戸時代に発生した巨大地震による高波被害からは免れている。

1日の消費エネルギーは歩くだけで2,000カロリーに達する

 筆者は来年3月末までに徒歩で九州一周する計画を立てた。まず福岡市をスタートして国道3号線を南下する。鹿児島市城山で国道10号線にルートを切り替え北上する。宮崎県、大分県を通過して北九州市小倉南区で3号線へ。そこから一路、西に向けて最終ゴール地の福岡へと向かうのである。
 総距離は当初、1,000kmと見込んでいた。しかし、最初の福岡~鹿児島間ルートの距離は320kmだと思っていたが、実際は約290km。また国道10号線も鹿児島市から小倉南区までの距離もかつては約552kmあったが今は454.8kmしかない。距離が約20%も短くなっている。その要因は各所にバイパスができたためだ。小倉~福岡間の約70kmを足すと817kmぐらいの距離になる。しかし、決して「距離が短くなってもうけた」という気分にはならない。

 当初、1日40km、25日間歩くというプランを立てていた。そうなると約20日間でゴールする計算になる。そこでハプニングなども考慮したうえで1日最低30km歩くことにした。
 また何時から歩くかにも頭を悩ませた。今は午前8時を過ぎると日差しが強くなり、体力を奪われてしまう。そこで午前2時から午前9時まで歩き、それ以降は歩かないようにすることにした。

 さて本題に入ろう。40km歩くということは、歩くスピードなどにもよるが私の場合は約55,000歩(筆者の歩幅75cm)必要だ。これだけ運動すると約2000カロリー消費する。江戸時代は今よりはるかに道が険しかったはずだ。江戸時代の旅人のカロリー消費量は相当だっただろうと推測できる。
 『新居の鰻蒲焼』『丸子のとろろ汁』『桑名の焼き蛤』などの東海道五十三次の三大名物は後世に残された。いかにも風流な感じがする。東海道五十三次を歩く旅人たちはエネルギーを確保するために、それらを含めた各宿場の名物をきっと『ガツガツ』食べていたことだろう。
 ここで強調したい。映画や、テレビの時代劇で当時の人々が質素な食事をとるシーンをよく目にする。しかし、旅人たちに関しては、かなりたくさん食べる必要があったわけで、旅籠屋は食事客で賑わい、おおいに稼いでいたことは想像に難くない。

五十三次中、22の宿場がある静岡県

 東海道五十三次の江戸から京都までの行程は、江戸日本橋から京都の三条大橋までの495kmである。江戸時代中期のある狂歌師は12泊13日で江戸・京都を歩いたと書き残している。個人差はあると思うが、平均すれば江戸時代の人たちは1日約10里、40km前後は歩いていたとみられる。だから片道平均12、13泊だったのだ。

 では一体、どのくらいの人たちが歩いていたのか。ひとくちに江戸時代といっても時期によって経済発展の度合いに差異がある。1780年から1810年ごろとなると公用ばかりではなく、お伊勢まいりなどの観光客も増えてきていた。1日1,000人は旅にでていたようだ。そうなると東海道五十三次では平均13日間かけたとして1万3,000人が旅していたことになる。当時の旅籠屋産業はビックビジネスだったのだ。

 さて最後に『東海道五十三次宿場名物』を参照してほしい。五十三次の宿場名物の大半は食事と酒である。そして注目されるのは現在の静岡県エリアには22の宿場があったことだ。三島に始まり清水次郎長で有名な江尻、静岡市の府中、藤枝、掛川、浜松。舞坂と続き三河国へと。全体の約40%を占めている。
 宿場町には現金が落ちる。運送関係の仕事もたくさんある。そして何よりも旅人への食糧の提供が重要になるので、食関連産業が発展する。旅籠屋をトップにした旅籠屋産業が地元に恵みを与えてくれるのだ。現代流に置き換えれば『インバウンドによって地域が活性化される』ということになるだろう。そういうわけで現在の静岡県は旅籠屋産業により豊かだったと断言できる。

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(了)

 
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