追悼文~無念、良きライバル池田俊一氏天に召される

(有)福岡経営企画 創業者 池田俊一氏 (有)福岡経営企画の創業者・池田俊一氏が7月7日、81歳で逝去された。詳細は文末に添付している『福博ジャーナル』を参照されたし。この1年、故人の健康状態が気になっていた。昨年10月、会食をしようと促したところ、「いまちょっと禁酒状態になっている。体調回復後にやろう」という返事をもらった。だが、いつもは元気な声に力がなく、不安を感じた。その後、耳に入ってくる池田氏の近況は「体調が芳しくない」というものばかりであった。

東京経済繁栄の基盤を構築した同志

 筆者が東京経済(本社:北九州市)福岡支社(その後、九州支社に組織変更)に入社したのが1975年2月1日である。入社当時、故人は情報副部長として辣腕を振るっていた。「よし、この先輩に追いつき追い抜いてやる」と闘志を燃やし始めたのは、入社3カ月ほど経ったころだろうか。池田氏は情報部を統括し、筆者は企業畑を耕していった。このように持ち分、領域は違っていた。営業の数字について、故人が全国で1位の座を誇っていたが、83年ごろには筆者も肩を並べる実績を上げるようになった。この両名は東京経済全社の総利益の60%強を稼ぐほど奮闘していた。自画自賛が目的ではないが、「池田と児玉が競い合って東経が繁盛している」と周囲から高く評価されていたのは事実である。

お互い自立、独立の道を選択する

 故人から「二代目に尽くすのも張り合いがないな」と本音が漏れ出したのが90年頃であったと記憶する。「そうだよな。今のオーナーに尽くす喜びはあるが、一生、東経に尽くす人生はどうなのかな」と筆者も内心、悶々としていた。予想はしていたが、92年4月であったか、故人が辞表を提出したと耳にしたことで、「いずれ俺も独立を選択しよう」と腹をくくった。

 故人は92年9月に福岡経営企画を創業。「福博ジャーナル」の発行を定例化し、情報提供からスタート。その後、(株)福岡県民新聞社を立ち上げた。

 筆者も2年遅れの94年8月に退社し、同11月に(株)データ・マックスを設立した。池田俊一氏の存在があったからこそ、会社設立の勇気をいただき実行できたのである。この恩義を忘れず、交流してきたつもりである。

 しかし、人生は虚しいものである。故人には、やり残したことが数多くあったであろう。本当にお世話になりました。

合掌 児玉直

『福博ジャーナル』第9155号
『福博ジャーナル』第9155号

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