【加藤縄文道21】日本民族の三重構造
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縄文アイヌ研究会主宰
澤田健一これまで「日本民族の二重構造」ということが指摘されてきました。縄文時代末期に朝鮮半島から渡来人(つまりは朝鮮人)が日本列島にわたってきて、日本に水田稲作を伝え、その人々が弥生人となっていったと考えられてきました。
しかし、それは完全に間違っています。今後説明していきますが、世界で初めて水田稲作をはじめたのは、江南地方に渡った日本の夷(今でいう縄文人)なのです。その水田稲作の技術を完成させた縄文人が日本列島に帰ってきただけの話です。以前にお示しした通り、縄文人は東ユーラシア人の祖先集団なのです。
本当は、弥生時代初期には朝鮮人の渡来などなかったのです。それを核DNA解析の結果から具体的に示しているのが下記論文概要(プレスリリース)です。
この論文概要の3頁4行目後半から次の指摘がされています。
【弥生時代には、北東アジアを祖先集団とする人々の流入が見られ、縄文人に由来する祖先に加え第2の祖先成分が弥生人には受け継がれている】
【しかし、古墳時代には、これら2つの祖先に加え東アジアに起源をもつ第3の成分が存在】
【パレオゲノミクスによって日本人ゲノムの「三重構造」を初めて実証しました。】
これらから縄文人は2度の大きな混血を受けていることが指摘されているのです。第1回目は弥生時代になりますが、それは朝鮮半島からのものではありません。
その第1回目は北東アジアからの混血なのであり、それはスキタイ人と呼ばれる人々です。ペルシア人はその人々をサカイ人と呼んでいました。なぜ、スキタイやサカイと呼ばれたのかも含めていずれ著書に書きますのでお待ちください。
ヘロドトスはスキタイを大きく4集団に分け、一番東側に王族スキタイがいると記しています。王族スキタイ(夷、今でいう縄文人)はほかのスキタイを隷属民としていました。
【ゲロス河以遠は、前にもふれた王領のスキティアで、このスキュティア人は最も勇敢で数も多く、他のスキティア人を自分の隷属民と見做している。】
・松平千秋訳 『ヘロドトス 歴史 中』 (岩波書店 18頁3行目から)ヘロドトスは王族スキタイを「本来のスキタイ人」としてほかのスキタイ人と分けています。その「本来のスキタイ人」は一番東側、つまり本国日本に一番に近い場所にいたのです。
これは縄文人こそが東ユーラシア人の祖先集団であるという結論と合致する表現です。西側のスキタイは金髪の白人であり、遺された遺体の皮膚には鮮やかなイレズミがあります(これらはまとめてシリーズ最後の著作に記しますのでしばらくお待ちください)。
続いて第2回目の混血は古墳時代に始まります。それは「東アジアに起源をもつ」人々であると記されていますが、これが朝鮮人を指します。『日本書紀』でも、古墳時代の大和朝廷が朝鮮半島からの難民を受け入れたと記されています。半島難民に対して朝廷は食料と土地を与え、生活ができるようにしてやったと書いているのです。
古墳時代の日本は大和朝廷が日本全国に善政を敷いて安定した国づくりが進んでいました。それに対して朝鮮半島は混乱を極め、人々は日々の暮らしに困窮していたのです。その人々が生きる活路を求めて大挙して日本列島へわたってきたのです。(今も同じか?)
その人々に朝廷は生きる保証を与え、最後には百済郡、高麗郡、新羅郡の設置までしました。百済郡は早くに消滅しましたが、高麗郡と新羅郡は明治29年まで存続したのです。高麗郡は現在の埼玉県日高市・鶴ヶ島市全域とその周辺、新羅郡は新座郡と表記が変わり、現在の東京都練馬区や埼玉県新座市など広域に広がっていました。決して小集落などではなく、現在の1つの都市全域よりもはるかに大きいのです。
日本書紀が記すように、古墳時代になって初めて朝鮮人との大規模な混血が開始されたのです。それを『パレオゲノミクスで解明された日本人の三重構造』が科学的に証明しているのです。
結果として、近代の推論よりも日本書紀の記述のほうが正しかったのです。
近年、こうしたことが科学的な解析によって証明され始めているのです。今、学会はこれまでの見解を大幅に見直さなければならない、大変革を求められているのです。これから過去の歴史観を大修正する時代を迎えようとしているのです。そうした研究報告をこれからもご紹介していきたいと思います。
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