株主総会の深層(1)日産自動車、「Re:Nissan」はゴーン「リバイバルプラン」の二番煎じ(前)
経営再建中の日産自動車の株主総会は6月24日、横浜市の本社で開かれた。4月に就任したイヴァン・エスピノーサ社長ら4人の取締役が新たに選ばれ、新体制が正式に発足した。だが、前途は多難。日産の行き詰まりの根源を探ってみよう。(文中の敬称略)
株主総会では「追浜の町が吹っ飛ぶ」との怒号も
日産は2025年3月期決算で、過去3番目に大きい6,708億円の純損失を計上した。予定していた従業員の削減人員を2万人に拡大し、世界で7工場の削減を計画している。国内では追浜(おっぱま)工場(神奈川県横須賀市)と子会社の湘南工場(同県平塚市)の閉鎖が検討されている。
各社の報道によると、総会には昨年より400人以上多い1,071人が参加した。工場閉鎖による地域経済への打撃を懸念する株主は「追浜とかは、(仏ルノーから乗り込んできたカルロス・ゴーンが閉鎖した)村山工場みたいに、町が吹っ飛ぶ」と、経営陣の責任をただした。
業績不振により引責辞任した内田誠前社長ら執行役4人の退任時に支払った計6億4,600万円の報酬についても、ある株主は「利益が出たら役員の高額報酬。赤字になればリストラで従業員に責任。誰も責任を取らない放漫経営に見える」と批判したと報じた。
日産は6月25日、関東財務局に臨時報告書を提出し、株主総会での取締役候補の賛否比率を開示した。社長に就任したエスピノーサの賛成比率は97.03%だった。再任の取締役の賛成率は軒並み前年を下回ったが、新社長の賛成率は高かった。まずは、お手並み拝見といったところか。
閉鎖候補の追浜工場で、鴻海のEV生産を検討の報道
株主総会後、動きがあった。「日産が台湾電機最大手の鴻海(ホンハイ)精密工業と電気自動車(EV)分野の協業に向けて協議を始めた」と、報道各社が7月7日付朝刊で一斉に報じた。経営再建のため統廃合の候補としている追浜工場で、鴻海のEV生産を検討している、という。追浜工場は存続することができる。追浜工場を閉鎖するのではなく、存続させる。新社長が打ち出した日産の経営再建策「Re:Nissan」(リ・ニッサン)の目玉だ。
鴻海と手を組むという報道に「やっぱり!」というのが正直な感想だ。
筆者は、本欄で、2025年の年男と題して、「関潤鴻海EV事業CSO~古巣の日産株取得を狙う魂胆」(25年1月27日、28日)を寄稿した。合わせて一読していただきたい。
新社長エスピノーサの日産再建案は
カルロス・ゴーンのそれと酷似
エスピノーサ新社長はメキシコ出身。2003年にメキシコ日産に入社後、一貫して商品企画畑を歩む。カルロス・ゴーン体制下の18年に日産本体の常務執行役員に昇格。専務執行役員を経て、25年4月、社長兼CEOに就任した。
日産は6,708億円の巨額赤字に転落し、ホンダとの経営統合は白紙となった。
崖っ淵の瀬戸際にたたされた日産の再建を託されたエスピノーサ新社長は、再建計画「Re:Nissan」(リ・ニッサン)を打ち出した。国内を含む7工場の閉鎖や2万人の従業員削減の大リストラに大ナタを振るう。
エスピノーサ新社長は46歳。四半世紀前、日産の再建に乗り込んできたカルロス・ゴーンが社長に就任したのと同じ年齢だ。しかも、再建計画「Re:Nissan」は、カルロス・ゴーンの再建計画「日産リバイバルプラン(NRP)」にそっくり。NRPの二番煎じで、日産を蘇らせることはできるのか。
カルロス・ゴーン体制の再生と崩壊の足跡を振り返ってみよう。
「コストカッター」の異名がつくカルロス・ゴーン
カルロス・ゴーンは1954(昭和29)年3月9日、レバノン系ブラジル人の父親とレバノン系フランス人の母親の長男としてブラジルで生まれた。レバノンで育ち、フランス最高峰の理工系大学であるエコール・ポリテクニーク(国立理工科学校)に入学。さらに名門のエコール・デ・ミンヌ(国立高等鉱業学校)に進み、卒業後、タイヤメーカーのミシュランに入社した。ブラジル・ミシュランの責任者、北米事業のCEOとして辣腕を振るったが、同族経営のミシュランでは、それ以上の地位は望むべくもなかった。
そんな折り、赤字に苦しんでいる仏自動車メーカー、ルノーのCEO、ルイ・シュヴァイツァーからヘッドハンティングの声がかかった。96(平成8)年10月、ルノーに入社。上席副社長として、徹底的なコスト削減を実施し、ルノーの収益は回復。ゴーンは「コストカッター」の異名をとることとなる。
さらなる転機は98(同10)年。独ダイムラー・ベンツと米クライスラーの合併で、自動車業界は世界的再編に突き進んだ。当時の日産は、世界中から再建不能と見なされていたが、提携相手として日産を強く推したのがルノー時代のゴーンだった。日産に賭ける決断をしたシュヴァイツァーは、言い出しっぺのゴーンを日産に送り込んだのである。
カルロス・ゴーン神話の誕生
99年10月18日。ゴーンのデビューは鮮烈だった。破綻寸前の日産の再建に乗り込んだゴーンは、「日産リバイバルプラン」を策定、黒字化、有利子負債の半減、営業利益率4.5%達成の3つの数値目標を掲げた。そして「3つのコミットメント(必達目標)のうち、1つでも達成できないものがあれば、自分を含めて取締役全員が辞めます」と言い切った。
ゴーン改革のキーワードはコミットメントである。目標の達成に責任を負うと、公に約束するのだ。目標とは、努力目標ではなく、進退を賭したものとなる。退路を絶つ決意を強調して、単なる口約束でないことをゴーンは身をもって示した。コミットメントによって、ゴーンは日産改革の主導権を握った。ゴーンは人心掌握力に長けた百戦錬磨の経営者なのである。
日産リバイバルプランは1年前倒しで達成した。日産は華々しく復活し、カルロス・ゴーンは一躍、経営者の鑑となった。我が国の経営者は、目標は口にするが、達成できなくても責任を取らない。ゴーンを見習えという論調がマスコミに溢れた。
ゴーン改革を断行した日産は、巨額な赤字から過去最高の利益へとV字回復を果たした。コストの徹底した削減によって、財務面のコミットメントはすべて短期間に100%達成した。だが、車を売るという本業では、苦戦を強いられた。
ゴーンマジックのメッキが剥げ落ちた
ゴーンはさらなる野心的なコミットメントを打ち出す。05(平成17)年4月からの3カ年計画で、ゴーン改革の総決算ともいえる「日産バリューアップ」を推進する。世界販売台数420万台、うち国内は100万台がコミットメントである。
しかし、中期計画の最終年度の08(同20)年3月に世界自動車販売台数、420万台は達成できなかった。驚いたことに、ゴーンは、コミットメントの未達の責任をとらなかったどころか、「利益目標をコミットメントとして掲げるのは現実的ではない」と言い出して、あっさりコミットメント経営の看板を下ろしてしまった。
コミットメント経営の本家本元といえるゴーンが、見直しを口にしたのだから、ゴーンの心酔者たちはびっくりした。だが、不幸なことに、05年4月からルノーのCEOを兼ねるゴーンにコミットメントの未達の責任を問える人はいなかった。
コミットメントを達成できなかった役員・幹部社員は例外なく、辞めさせられている。コミットメントを達成できずにいて、辞めないのは社長のゴーン、唯一人である。このことを忘れてはいけない。「コミットメントの旗を下したのは自己保身だ」と批判されても、ゴーンは弁明できないだろう。
ゴーンマジックのメッキが剥げ落ちた。さらに08年秋のリーマン・ショックで、自動車業界は100年に一度という大不況に陥った。日産の09年3月期の最終損益は2,337億円の巨額赤字となり、無配に転落した。続く10年同期も無配を継続した。ゴーン神話は、もはや過去のものとなった。
ゴーン自身は、すでに日本市場への関心を失っていた。もう一歩、踏み込んだ言い方をすると、車をつくることも、売ることにも興味がなかった。
(つづく)
【森村和男】