福岡大学名誉教授 大嶋仁
参政党
外来種と在来種という差別構造は消え去っていない。25年の参院選で躍進ぶりを見せた参政党が、そのことを示している。
参政党は、「化学物質に頼らない食と医療の実現」とか「日本的教育への回帰」(=教育勅語の復活)とか、「反グローバリズム」「反ワクチン」といった標語を掲げている。また、これらを引っくるめて「日本ファースト」と主張している。
この「日本ファースト」が気にかかる。この表現には「日本第一」ではなく「アメリカ第一」が露呈しているからだ。これでは、彼らの望む「国民の誇りの回復」など無理だ。トランプ大統領の「アメリカ・ファースト」を真似ず、せめて「やまとに還れ!」と言ってほしかった。
参政党の体質に生理的「ゼノフォビア」(=外国人嫌悪)を嗅ぎとっているのは、評論家で作家の佐藤優氏である。氏は参政党の「反ワクチン」(=反外来異物)にそれが端的に現れているという。しかも、この傾向は「身体」に根ざすがゆえに根強いとも言っている。
氏の立場は、これを容認すればナチスのユダヤ人虐殺のような事態も起こりかねないから、教育の力で徹底的に抑止しなくてはならないというものだ。宗教を重んじる立場から、参政党とは真反対の公明党を支持している。公明党が仏教思想に基づいて「平和的共生」を掲げているからだ。
そもそも氏は、公明党の母体である創価学会の第3代会長池田大作を深く尊敬している。「仏法に基づく公明党だけが日本を正しい方向に導ける」と考えているのだ。
佐藤氏の視点を拡大すると、将来の日本は「参政党か、公明党か」という選択肢にたどりつく。立憲民主党はおろか、自民党すら中途半端であって、重要なのは参政党と公明党だけということになる。つまり、「身体感覚」を信ずるか、それを超えた普遍的価値を目指すか、このどちらかということになる。
理屈からすれば、日本が前者を選べば自滅するにちがいなく、後者を選べば生き延びられるのだが、かつて「一億玉砕」を掲げた国である。「外来種に侵略されるくらいなら、全員で死のう」と言い出さないとも限らない。
参政党の「日本ファースト」で問題にしたいのはそこだけではない。この党のいう「日本」とは何を指すのか。江戸末期に影響力をもった平田篤胤のいう「日本」なのか? それともはるか古代の「やまと」を指すのか?
多分、どちらでもない。彼らの日本とは「移民」や「在日」のいない社会以外ではない。佐藤氏のいう「身体感覚」に従えば、そうなっておかしくない。
ところが、身体感覚には個人差がある。また、それは一定の時代の社会が個人に刷り込むことで成り立つ。これを「共通感覚」として多くの人に浸透させるのは、情報が氾濫する今日、そう簡単ではない。
参政党の弱みは、ネットを通じて支持者を広げてきたことと関連する。現代はネットの時代とはいえ、ネットを通じての思想浸透力は表に見えるほど強くはない。書物などに比べて精度が低く、影響力も持続できない。
「日本ファースト」の背景にトランプの「アメリカ・ファースト」があることは先にも述べた。トランプはアメリカ民主主義衰退の象徴といえるし、アメリカ帝国の最後のあがきともいえる。それに追随する参政党は、だから「経済大国」であった日本の衰退、戦後民主主義の衰退の象徴といえるのである。
とはいえ、参政党が日本人の潜在意識にある外来種への嫌悪(=ゼノフォビア)を前面に押し出しているがゆえに、一定の支持者を得ていることはたしかである。「移民」の増加が一部の日本人をパニック状態に導きつつあるということだ。今後「移民」が増えていくにつれ、参政党的な考え方が拡大する可能性は十分にある。
日本政府は公式には「移民」を認めておらず、少子高齢化による労働力不足を補うため、「外国人労働者」というかたちでの受け入れしかしていない。しかし、在留外国人数は年々増加しており、永住許可者や「特定技能」などの在留資格を持つ外国人も増え続けている。つまり、事実上は「移民」を受け入れていることになる。
「受け入れ」というと寛容なようだが、むしろ「必要」としているのである。この事実をどこまで引き受けるか、そこに日本の将来がかかっている。
参政党の躍進は、在日朝鮮=韓国人に対するヘイトスピーチ(=憎悪表出)が法的に規制されていることとも関係する。ヘイトスピーチを容易にできないとなれば、参政党に投票するということにもなるだろう。
大阪のあるコリアン団体は、参政党は「差別的」だとして党に抗議している。在日コリアンは在日外国人の古株で、その背景に日本の植民地支配と戦争とがあるから、新参の外国人労働者と同一視はできないのだが、参政党的にとっては「在日」も「外来異物」である点で他の在留外国人と変わりはないのだ。
(つづく)








