古代エジプト文明を築いたのは縄文人

縄文アイヌ研究会 主宰 澤田健一

 古代エジプト人の全ゲノムを初めて解読した研究結果が7月2日付けで学術誌『ネイチャー』に発表された。
https://www.nature.com/articles/s41586-025-09195-5
 この論文の重要な箇所を抜粋してご紹介します。

【放射性炭素では紀元前2855年から2570年と年代測定された】
【彼はエジプト統一後数世紀を生き、初期王朝時代と古王国時代の架け橋となった人物】
【遺体は岩を削った墓のなかの陶器のかめに埋葬されていた】
【彼の遺伝的祖先の約20%は、メソポタミアとその周辺地域を含む豊かな三日月地帯の東部を代表するゲノムにさかのぼる】
【この遺伝的親和性は、新石器時代と青銅器時代にアナトリアとレバントに現れた祖先と似ている】
【彼は、茶色の目、茶色の髪、および暗い肌から黒い肌までの範囲の色素沈着をもっていたと予想される】

 これまで世界中の学者たちは古代エジプト文明を築いた人々がどこからやってきたのか分かっていなかった。突然現れた人々が古代エジプト文明を築いたのです。それは謎の民族とされていたのですが、その謎を解く手がかりが今回示されました。

 今回の「彼」は古代エジプト文明が始まって数世紀経っていますので、現地民族と混血していて、80%は現地民族の遺伝子です。残りの20%はメソポタミアとの関連が示されており、アナトリア・レバントの地に現れた人々と似ていると指摘されています。「レバントに現れた人々」、つまりその人々も外来民族なのです。

図 レバント(濃い部分)
図 レバント(濃い部分)

 これは筆者が『古代文明と縄文人』で予測したルートと完全に一致しています。

【やがてレバント地方から中石器時代(前1万2000~前5000年頃)が始まっていく】(『古代文明と縄文人』P112)
【中石器時代のレバント地方において、人々は住居を定めて村落を形成するようになる。そしてこの時期にヨーロッパ初の竪穴住居がこの地に出現するのである。その後、レバント地方の東側にメソポタミア文明が興り、西側ではエジプト文明が興ることになる】(同P113)
【ヨーロッパ中石器時代の遺跡は極めて少なく、それもほぼ貝塚しかない。そして細石刃や骨角器、それからカヌーや弓矢を使い、竪穴住居にも住む人々なのだ。これらはすべて日本民族の特徴ばかりなのである】(同P114)
【(ドイツ南方のゲナスドルフ遺跡に居た人々は)もっと限定的にいえば北海道で寒冷地対策を完了させていた日本民族であろう。だからこそ、その地には生息しないアザラシを知っていたのだ。その人々は、このゲナスドルフを経由して紀元前1万2000年ごろにレバント地方へ入っていったのだと考えられる。年代的にもきれいに符合するので、この推測は正しいであろう】(同P123)
【広義の解釈ではエジプトもレバント地方に含まれる。前5000年ごろに広義のレバントの地である古代エジプトで定住が始まり、農耕が開始されたようだ】(同P140)

 ネイチャーの発表はこれらの推論を裏付けるものとなった。その人々は紀元前1万3000年頃のゲナスドルフや前1万2000年頃のレバントに縄文人の遺跡や遺物を遺しながら、メソポタミアや古代エジプトの地へと入っていったのです。

 さて、「彼」は「陶器のかめに埋葬されていた」のですが、それは日本の縄文時代から行なわれていたかめ棺葬のことです。その「彼」は屈葬されていて、屈葬も縄文人の埋葬方法です。つまりゲナスドルフに突然現れた人々は、レバントを経由してエジプトに入るまで一貫して縄文人の技術・習俗を保持しているのです。

 ここで「茶色の目、茶色の髪、および暗い肌から黒い肌」について解説しておきます。現地エジプト人の遺伝子が8割も入っているので黒い肌になっているのは理解できます。しかしエジプト人が茶色の目や茶色の髪(金髪)であるはずがありません。白い肌・青い目・金髪、これをヨーロッパ人の特徴だと思われるでしょうが、由来は違うのです。初期ヨーロッパ人は、肌色や髪色はアフリカ人とそう大きく変わらず、北方の外来人の美しさに憧れていました。

 それが歴史家タキトゥスの記した『ゲルマニア』や、詩人オウィディウスの詩などに記録されています。初期のヨーロッパ人は外来人の白い肌、青い目、金髪に憧れをもっていて、積極的に取り入れたことが書かれているのです。日本から大陸北方にわたって行った人々は紫外線の弱い地域で1万年以上も暮らしているうちに色素が薄くなっていったのでしょう。近年では金髪の発祥は、後にスキタイと呼ばれる人々の居た地域、しかもその東側にあると指摘されているのです。

 そして、古代エジプト文明からもメソポタミア文明からも奇麗な十六菊花紋が出土していて、王家の紋章として伝わっています。それは日本の天皇家の紋章であり、古のスメラミコトの紋章だったのでしょう。これほどまで日本民族のたしかな痕跡が遺されているのです。つまり、古代エジプト文明を築いた謎の民族とは、日本民族のご先祖様たちだったのです。

プスセンネス1世の黄金の杯、杯の中央に十六菊花紋が刻まれている (ラムセス大王展にて)筆者撮影
プスセンネス1世の黄金の杯、杯の中央に十六菊花紋が刻まれている
(ラムセス大王展にて)筆者撮影
日本民族の大移動(改めて解説します)
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