『日本有事』という虚像~経済的合理性から見た緊張の構造~

青山英明

 日本ビジネスインテリジェンス協会(BIS、中川十郎理事長)より、青山英明氏の記事を提供していただいたので掲載する。

はじめに

 2026年現在の東亜情勢において「台湾有事は日本有事」といった言説は、もはや外交上のレトリックを超え、日本の国家戦略の根幹をなすテーゼとして定着しているように見受けられる。この種の緊張感の醸成は、単なる純粋な国防上の危機感ではなく、経済的合理性の観点からすると「有事」という緊張状態の維持こそが、日本の政治・経済の中枢における特定プレーヤーに巨大な利益をもたらす構造を成し得るのである。

 本稿は、試論であり、違法性の断定を目的としない。オープンリソースとなった資料にのみ基づき、特定の政策決定層による防衛予算拡大の真の狙いが、軍需産業を通じた利益還流と受け取られかねない構造であることを指摘し、軍事的リアリズムの観点から中国との正面衝突が国民利益に反するものであることを論証したい。

1.軍需産業における「鉄のトライアングル」と献金構造

 日本の安全保障政策が急速な拡張に転じた背景には、特定の政策決定層、官邸・防衛官僚、そして軍需産業という三者からなる「鉄の三角形(アイアン・トライアングル)」による、強固な利権共有構造が存在する。2026年度予算において、防衛関係費が対GDP比2%(約9兆円規模)という未曾有の水準に達した事実は、関連産業にとって公共事業を凌駕する巨大な市場創出を意味している。

 当該構造の中枢を担うのはいわゆる「防衛御三家」であろう。これらの企業は、次期戦闘機(GCAP)開発プロジェクトや、長射程のスタンド・オフ・ミサイル量産計画といった、数兆円規模の国費が投じられる大型プロジェクトにおいて主導的な役割をはたしている。特定の政策決定層がこれらのプロジェクトを強力に推進し、予算を聖域化して確保するプロセスは、国防上の正当性を謳いつつ、実態としては特定の企業群への長期的な収益を確約する行為に他ならない。

 これら企業側から特定の政策決定層への「見返り」は、政治献金や政治資金パーティー券の購入というかたちで顕在化している。総務省の政治資金収支報告書 によれば、主要防衛企業から与党特定の政策決定層への献金は安定的に維持されており、防衛予算の拡大局面に合わせてその規模は拡大の兆しを見せている。これでは国家予算が民間企業への発注というかたちを経由し、再び特定の政策決定層へと還流する循環構造と見なされても、しかたないのではないだろうか。

 さらに、近年導入されたセキュリティ・クリアランス制度 は、情報保護を名目としながらも、その実態たるや機密情報を扱う資格を特定の「認定企業」に限定することで、強力な参入障壁(ファイアウォール)を形成しているようである。これにより、防衛御三家を頂点とする既存のサプライチェーン(いや供給ネットワークというべきか)は、新規参入から守られた「既得権益の要塞」と化し、価格競争の原理が働かない不透明な調達構造を助長していると見られる。また、防衛省幹部が退職後に受注企業へ顧問などとして再就職する「天下り」の慣行も、この還流システムを円滑化する潤滑油として機能している。防衛予算の拡大は純粋な安全保障上の必要性以上に、政治的・経済的な還流システムを維持するための合理的な選択として機能しているのでは、と訝しまれても文句はいえない状況ではないだろうか。

2.軍事的リアリズムと国民利益の不一致

 特定の政策決定層がメディアや国会答弁において喧伝する「日本有事」の切迫性に対し、現実の戦力バランスを客観的な数値で分析すれば、核保有国である中国との正面衝突で日本が「勝利」するとは考えにくく、日本に住む一個人の立場からすれば、いかに経済的合理性が低いのかは火を見るよりも明らかである。

 まず国際戦略研究所(IISS)が発行する『ミリタリー・バランス2025』および日本の『令和7年版防衛白書』に基づくデータで、圧倒的な戦略差を見てみよう。中国人民解放軍の現役兵力は約200万人以上であり、自衛隊(約22.7万人)の約10倍に達する。海上戦力においても、中国が370隻以上の主要艦艇を保有し、急速に空母打撃群を拡充させているのに対し、日本の護衛艦は約50隻にとどまる。航空戦力では2,400機以上の作戦機を擁する中国に対し、日本は320機程度である。在日米軍(約5.5万人)の戦力を加味したとしても、中国が第一列島線内において構築した「接近阻止・領域拒否(A2/AD)」能力、とくに対艦弾道ミサイルや極超音速兵器、さらにはドローンによる飽和攻撃能力は、日米の質的優位を質・量の両面で無力化しつつある。

 このような軍事的リアリズムを無視した正面衝突への挑発が招くものは、国の破滅である。経済的な観点では、正面衝突はサプライチェーンを瞬時に断絶させ、最大の貿易相手国である中国市場を喪失させる。これは日本経済に不可逆的な打撃を与え、ハイパーインフレや食料・エネルギーの途絶を招く。Bloomberg Economicsの試算 によれば、台湾周辺での紛争発生による世界的な経済損失は10兆ドル規模に達し、日本はその最大の被災国の1つとなるという。

 そして有事によって利益を得るのは、軍備品を受注する特定の軍需セクターや、サイバーセキュリティ関連の一部の企業に限定される。筆者を含む大多数の一般市民にとっては、防衛増税による可処分所得の減少、社会保障予算の圧迫、そして戦禍による生命・財産の喪失という、極めて過酷な不利益のみがもたらされる。従って、正面衝突は国家の合理的な選択肢とはなり得ず、そのリスクを冒すことは国民の利益に明白に反する行為であると断じざるを得ない。

3.特定の政策決定層による「戦略的沈黙」と緊張の維持

 しかしながら中国という世界最大級の軍事力と経済力を併せ持つ巨大勢力に対し、日本と駐日米軍がいささか軍事的な補強を行ったところで、仮に時間軸を無視して中国がこれを看過すると愚直に考えても、その絶対的なパワーバランスの前では児戯に等しいことは、筆者に論じられるまでもなく要人お歴々も、この戦力差を認識していないとは考えにくい。

 ではなぜ、なおも挑発を繰り返す必然性があるのか、ここでもやはり経済的な側面による影響が大きいのでは、と思われる。中国の「レッドライン」を実際に踏み越えることは、実戦という名の外交放棄および政治的・経済的破滅を招くため、特定の政策決定層にとっても得策ではない。しかし、完全に緊張を解くことは利権構造の崩壊を意味するため、「特定の政策決定層」は「程よい緊張感」を永続させる戦略をとっているのではないだろうか。

 反面、一般市民の利益を考えると史書の一つ、『智囊』に記された三国時代の将軍・李典の故事が、この状況を読み解く上で実に示唆に富んでいる。迫りくる袁紹の大軍に対し、城の太守たる李典は主君・曹操からの増援提案に対し「兵少なれば敵は我を軽んじ、兵多ければ必ず争わん」としてこれを拒絶し、結果、氏の読み通り袁軍は攻めてこなかった 。李典の論理は明快である。わずかな兵力であれば敵は「取るに足りない」と見なして無視するが、中途半端に兵力を増やせば、そこを「戦略的拠点」と認識し、敵は総力を挙げて攻撃を仕掛けてくるというものである。

 現代の日中関係において、日本が進める「敵基地攻撃能力」の保有やミサイル配備は、中国を圧倒する抑止力にはなり得ないばかりか、まさに李典が懸念した「攻撃の誘因」を生み出す行為に見えてならない。軍事的に中国を屈服させる見込みがないなかで、小規模な通常戦力の積み増しをするのは、国防上の合理性は皆無ではなかろうか。

 にもかかわらず、この「軍備拡張のパフォーマンス」が続けられる。有事の緊張を維持し、脅威を叫び続けることによってのみ、巨額の防衛予算が正当化され、特定の政策決定層への献金と軍需産業への利益が担保されるのであろう。

 特定の政策決定層は、中国の「レッドライン」を真に踏み越えて実戦に至ることが、自らの権力基盤と経済的利権を根底から破壊することを把握している可能性が高い。ゆえに特定の政策決定層は、対外的に決定的な刺激や中国の感情を決定的に逆なでする行為は回避する「戦略的沈黙」を守るだろう。しかし、国内向けには「日本有事」の看板を降ろさず、むしろ緊張感を煽り続けている。

 賢明な特定の政策決定層のお歴々は、中国を決定的に刺激する発言を控える「戦略的沈黙」を保ちつつも、防衛予算を聖域化するために「有事」の可能性を撤回しない。緊張を保ちつつ実戦を回避するという「寸止め」状態こそが、軍需産業からの献金を最大化し、権力基盤を固めるための最も投資効率の良い政治的振る舞いであるゆえんだろう 。

結びに

 上述の条々から「日本有事」という言説の裏側には、国民の安全保障とは別の次元で動く特定の政治的・経済的利権を最適化するための精緻な計算に基づく虚像があるように思われる。いうなれば「虚像としての有事と、実像としての利権」といったところだろうか 。

 特定の政策決定層は、中国との正面衝突が勝利をもたらさず、国民の広範な不利益を招くという軍事的・経済的現実を十分に把握している。しかし、防衛予算が政治献金や利権の源泉として、他の政策分野よりも極めて高い「投資効率」を持つ政治資源である以上、その前提となる「敵」と「緊張感」を解消することは、特定の政策決定層にとっての自己否定に直結する。

 であるとすれば現在の日本の安全保障政策の実態は、中国のレッドラインを慎重に見極めつつ、国民の危機感を動員して予算を聖域化し、その果実を「鉄のトライアングル」の内部で分配するシステムであろう。筆者を含む一般市民にとって真に利益になるのは、軍事の量的競争という非効率かつ危険な道に国力を浪費することではないだろう。外交と経済的相互依存、そして一般市民のリアリズムに基づいた紛争回避の論理を再構築し、演出された緊張感によって「誰が肥えているのか」を監視することにある。この不透明な利権構造の打破こそが、26年現在の日本に課せられた真の安全保障上の課題であろう。


  防衛産業からの献金構造 :総務省「政治資金収支報告書(中央分)」参照。主要重工業メーカーから政治資金団体「国民政治協会」への献金推移を確認可能。 https://www.soumu.go.jp/senkyo/seiji_s/seijishikin/
  セキュリティ・クリアランスと独占:内閣官房「重要経済安保情報の保護及び活用に関する法律案の概要」参照。適性評価を伴う資格制度が事実上の参入障壁として機能する構造について。https://www.cas.go.jp/jp/houan/240227/siryou1.pdf
  日中の軍事力格差: 防衛省「令和7年版防衛白書(日本の防衛)」および国際戦略研究所(IISS) "The Military Balance 2025" 参照。日中両国の兵員数、艦艇数、航空機数の圧倒的格差に関する統計データ。 https://www.mod.go.jp/j/publication/wp/index.html
  有事時の経済的損失:Bloomberg Economics "Shocks to Global GDP from a Conflict Over Taiwan" 参照。有事の際の世界GDPへの影響とサプライチェーン寸断の試算。
https://www.bloomberg.com/news/features/2024-01-09/potential-taiwan-war-costs-world-economy-10-trillion
 馮夢龍『智囊全集』兵智部(李典「兵少不救」の故事)および『三国志』魏書・李典伝参照。少数の兵が攻撃を免れ、増援が攻撃を招く逆説的論理の原典。


<プロフィール>
青山英明
(あおやま・ひであき)
一帯一路日本研究センター研究員、南京大学博士課程在学中。南京大学「一帯一路」研究院首席専門家・于文傑に師事し、地政学的ロジックを一次史料に基づく解析で、海のシルクロードと「一帯一路」構想の構造的共通項が、現代の意思決定に与える示唆を研究テーマとする。
実務面では、2007年より香港、蘇州、上海、北京の主要4都市に12年間駐在。証券・PEファンドの立場から、中国経済の変遷と資本論理を現場レベルで一貫して経験した。現在、北京語言大学の非常勤講師として「日中間のビジネス事情」を担当。同時に、中国企業の日本パートナーとして隔月での現地往来を継続しており、企業のハンズオン支援やスタートアップ投資を通じて、現地の最新の意思決定プロセスに直接関与している。

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