千鳥屋の歩みは、単なる一軒の老舗による拡大の軌跡ではない。原田一族は飯塚を軸に、福岡、東京、大阪・兵庫へとそれぞれの道を歩み、やがて「4つの千鳥屋」と呼ばれる姿になった。同じ暖簾の下にありながら、進む方向は少しずつ異なり、その広がりは栄光であると同時に、分裂と葛藤の歴史でもあった。
千鳥屋の歴史をたどると、それは単なる老舗菓子店の沿革にとどまらない。江戸初期に佐賀で始まった一軒の菓子屋が、炭鉱都市・飯塚で飛躍し、福岡の都心に進出し、さらに東京、大阪へと広がっていく。その歩みは、地方発の菓子ブランドが都市市場へ進出していく成功物語として読むことができる。一方で、その裏側には、同族経営ならではの事業承継の難しさ、暖簾分けがもたらすブランド分散、そして長年にわたる家族間の対立があった。2026年2月27日、飯塚系の千鳥屋本家グループが民事再生法の適用を申請したことで、改めて「千鳥屋とは何者なのか」が問われている。
「4つの千鳥屋」という実像
現在、多くの消費者は「千鳥屋」と聞けば、1つの老舗菓子メーカーを思い浮かべるだろう。だが実際には、同じ源流をもちながら、それぞれ独立して経営される複数の会社が存在している。福岡の(株)千鳥饅頭総本舗、飯塚の(株)千鳥屋本家、大阪・兵庫の(株)千鳥屋宗家、東京の千鳥屋総本家(株)(業績悪化と大口取引喪失で16年に民事再生法適用、その後GLIONがスポンサーとして事業を引き取って再建を担ったが、最終的には千鳥屋宗家へ統合され、法人としての千鳥屋総本家は23年に消滅している)──いわば「4つの千鳥屋」が並立する構図であった。共通するのは歴史の出発点であり、同じ家系から枝分かれしたという事実だ。しかし、現在の法人、商品戦略、経営基盤はそれぞれ異なる。千鳥屋の歴史を理解するには、この「共通の家業の歴史」と「現在の別法人としての歴史」を切り分けて考える必要がある。
飯塚進出が生んだ飛躍
出発点は、原田家が佐賀で営んだ菓子づくりに遡る。伝承によれば、原田家は16世紀末ごろから肥前国の久保田周辺で酒饅頭などの製造を手がけていたという。そして1630年、佐賀郡久保田町で「松月堂」の屋号を掲げ、本格的な菓子店としての歩みを始めた。これが後に「千鳥屋」と呼ばれる家業の原点である。
その歴史が大きく動いたのが1927年だった。創業者の原田政雄氏は、「田舎にいてもうだつがあがらん。これからは都会に出ていかんといかん」と、当時炭鉱景気に沸いていた福岡県飯塚市へ進出し、松月堂の支店として「千鳥屋」を開いた。ここで「千鳥饅頭」「丸ボーロ」「かすていら」などを製造・販売し、飯塚の地で知名度を高めていく。33年には「千鳥饅頭」が全国菓子品評会で壱等賞金牌を受賞し、代表商品の地位を固めた。さらに39年には、佐賀の松月堂を閉じ、飯塚の千鳥屋を本店とした。これにより、千鳥屋の経営の重心は完全に飯塚へ移った。つまり、千鳥屋というブランドは、佐賀に起源をもちながらも、実質的には飯塚で成長した菓子ブランドだと言える。
福岡進出と中興の祖・原田ツユ
戦後になると、千鳥屋は都市市場へ進出する。49年、福岡市の新天町に出店し、福岡市内での販売基盤を築いた。この進出は、飯塚の地方菓子店が県都・福岡に進出するという意味をもっていた。その後、54年に創業者の原田政雄氏が死去すると、妻の原田ツユ氏が事業を承継する。ツユ氏は後に「中興の祖」と呼ばれる存在で、千鳥屋を家業の枠を超えた広域ブランドへ押し上げた中心人物である。
(つづく)
【内山義之】








