中小企業をめぐる事業承継の明暗が語られている。確かに、事業承継できずに廃業する企業が続出しており、倒産しか選択できなかった悲惨な話は枚挙に暇がない。しかし一方で、この15年間の日本経済の動向を上手に利用して中小企業から中堅企業へと脱皮できた例も多い。最近、筆者が触れた情報をもとにレポートしてみよう。
※以下、登場人物はすべて仮名である。
創業102年で幕を閉じる
ライオンズクラブの仲間であった村井氏が来社してきた。彼は若かりし頃、JC活動で活躍してきたから、その世界では有名な人物であった。ただし、この5年ほど体調不良により、厄介な健康状態に苦しんでいた。年齢はまだ50代半ば。腎臓の透析を週4回行っている。透析は昼間に6時間行うことになっている。そのため、仕事をする時間にも制限が生まれてしまう。腎臓病の原因は母親からの遺伝性のものであるとか。人生の無常を受け入れるしかなかったのだ。当社訪問の動機は「廃業報告」であった。会社の歴史は、創業から数えると102年におよぶ。村井氏はその3代目に当たる。
「100歳死亡説」が流れる
「成田氏が今年、亡くなっていたと耳にしたが、聞いているか?」という問い合わせがあった。言われてみれば、確かにこの3年ほど接触がない。福岡市中央区の薬院に居住していた頃は、同地区や赤坂地区でよく愛犬を連れて散歩していた。友人・知人の目撃者が多かったのである。このメンバーたちに連絡したものの、誰もが「この2年間、見たことも会ったこともない」というつれない返事ばかりだった。「人生の終末は、施設で寝たきりだったのかな」と勝手に推測する。
成田氏は県下一の内装業者のオーナーであった。息子を事業の後継者にしようとしたが、失敗した。子どもたちとの付き合いも途絶えてしまっていたらしい。残された連絡先は、オーナーとして設立した会社だけだった。現在の会社の経営内容は順調である。総務部長に問い合わせてみたところ「すみません。創業者とは少なくともこの5年間は音信不通で、連絡が取れません。だから生死に関する情報は皆無です」との返事であった。
成功裡で終わる実例も無数にあり
水城(86歳)、甲南(82歳)、牟田(78歳)と筆者を加えた4名で晩餐会を開いた。この3人の共通点は、サラリーマンを経験してから事業を起こしたことである。加えて、人の100倍努力したからこそ成功を収めたという点も共通している。だが、成功の形はそれぞれ対照的である。
事業承継成功の例
まず水城氏の例から紹介しよう。同氏の場合は、息子へのスムーズな事業承継に成功したケースである。現在、会長のポストに就き、週4回は出社している。近々では夫婦でアフリカ旅行に出かけていた。水城氏の場合、徹底的に人事交流を大事にしてきたのである。「敵をつくらずに円満な関係を築いていく」ことに徹してきた。だから金融機関からの信用も絶大であった。専務のポストには必ず銀行OBを配置してきた。
業種は立体駐車場の経営である。最初は施工業者であったが、管理事業を主体にしたことが飛躍の要因となった。さらに、息子が事業を拡大させたことで大躍進した。水城氏のプール通いは有名で、かなりの長寿となりそうだ。現在も株取引でしっかりと儲けている。
M&A成功の例
甲南氏が福岡にでてきたのは1978年である。業種は住宅のベランダ工事の部類。福岡進出15年目に、全国展開を始めたハウスメーカーと知り合った結果、同氏の企業の全国展開が始まった。営業所は仙台にまで開設し、1人で飛んで回った。凄まじい行動力であり、感服した。また、コストダウンに対しても厳しい視点をもつ経営者であった。中国とフィリピンにコスト削減のための拠点を構えた。後にこの国際事業が功を奏した。
甲南氏も70歳に達するころから、M&Aによる事業承継の計画を始めた。2年経過してすばらしい買い手が見つかり、かなりの売値となった。しかも買主は、関連会社までは引き取らなかった。その結果、買収されなかった会社が同氏に安定した収入をもたらしている。
現在の甲南氏の趣味はゴルフと世界旅行である。近々、飛行機による世界一周にでかける。
気分次第で廃業の選択も
牟田氏の特筆すべき点は、デザイン力である。福岡市からデザイン領域に関するコンサルを頼まれたこともあった。付き合いは大好きだが、無茶苦茶な出費はしない。といっても、世間でいう「ケチ」の部類ではないことは間違いない。筆者が「ある団体の50周年記念」の協賛をお願いすると、気前よく100万円出してくれた太っ腹な一面もある。推定だが、株などで20億円は貯めているだろう(しかも奥さんの会計分は別)。本人の考えではあるが、事業を買いにくれば売っても良いし、廃業しても構わないというスタンスだ。「借金がない」ということは強いな。








