7月23日にレバノンで亡くなった岡本公三さんは、1972年5月30日のリッダ闘争(テルアビブ空港乱射事件)において、奥平剛士さん、安田安之さんとともにテルアビブのリッダ空港で、「デイル・ヤシーン村虐殺の報復作戦」と名付けられたPFLPの作戦に義勇兵として参加しました。
この作戦では20数名のイスラエル人やプエルトリコからきた巡礼団などが犠牲になりました。3人の日本人義勇兵は「パトリック・アルグレロ隊」と呼ばれ、奥平さんと安田さんは自爆またはイスラエルの警備兵の銃弾で命を落としますが、岡本さんは、空港係員に取り押さえられ、その場で逮捕されます。
「パトリック・アルグレロ隊」はパリ発ローマ経由テルアビブ行きのエールフランス機にローマから搭乗、リッダ空港に到着後、預けてあった手荷物から銃などの武器を取り出し、空港の警備兵と銃撃戦になります。そのなかで、アハロン・カツィールというイスラエルの重要人物が命を落とします。アハロン・カツィールは著名な生物物理学者で、次の年に行われる大統領選挙の与党側の候補者でした。彼はドイツでの研究会を終え、エールフランス機にパリから搭乗していました。「パトリック・アルグレロ隊」のメンバー3人は数日前からローマで待機 、PFLPからの指示でアハロン・カツィールが乗ったエールフランス機に搭乗、テルアビブ到着と同時に行動を起こします。後に、PFLPの幹部から重信房子さんが聞かされたように、「デイル・ヤシーン村虐殺の報復作戦」はこのアハロン・カツィールを狙った軍事作戦であったと考えるのが自然です。
デイル・ヤシーン村はエルサレム近郊の村で、1948年4月、建国を前にしたイスラエルのユダヤ人武装組織が村を襲い、数百人の村民を虐殺しました。危険を感じたパレスチナ人は大挙してパレスチナの土地を離れます。「ナクバ」と呼ばれるパレスチナ難民発生の始まりでした。そのころ、パレスチナ人の村には、井戸にチフス菌を投入されたり、水源にコレラを撒かれたりと、生物兵器を用いた攻撃が多発します。建国前のイスラエル軍内の生物兵器や化学兵器の開発の責任者の地位にあったのが、アハロン・カツィールとその弟エフライム・カツィールでした。エフライムはアハロン亡き後の大統領候補になり、当選、大統領に就任します。
このような背景のもとで起こったのが、いわゆる「テルアビブ空港乱射事件」でした。 しかし、リッダ闘争は、日本人3人による無差別乱射事件として語り継がれています。事件直後、「日本人3人は無差別に銃を乱射し、多数の人を殺した。たまたまそのなかにアハロン・カツィールが含まれていた」と発表したのはイスラエル当局です。現場を見ていたメディアなど誰もいないのをいいことに、イスラエル創作のストーリーが流され、世界に流布しました。
逮捕された岡本公三さんはイスラエルの法廷で終身刑判決を受け、服役しますが、十数年後捕虜交換で釈放され、最終的にはレバノンへの政治亡命が認められます。レバノンで、岡本公三さんはアラブの英雄として、熱狂的に迎えられます。いくら敵のイスラエルを攻撃したといえ、無差別に民間人を殺害しただけであれば、そこまで英雄視されることはなかったでしょう。パレスチナの宿敵アハロン・カツィールを倒したことが賞賛されたのだと思います。
事件後、6月22日の朝日新聞の記事では、岡本公三さんは「自分は空港で警官を狙い、乗客は撃たなかった」と述べています。また、20年後にはインタビューに答えて、「訓練した我々3人が、計画どおり警備兵を撃ち、慌てた警備兵が旅行客に向かって無差別に撃ち返した。その結果、戦闘に巻き込まれた人々が多数死傷した。我々が想定していた以上に、慌てたイスラエル警備兵のでたらめな射撃による死傷者が大半だった。しかし、今僕がそう証言しても、自己弁護にしかならない。」と発言しています(「日本赤軍20年の軌跡」話の特集93年5月)。
「パトリック・アルグレロ隊」がアハロン・カツィールを狙うと同時に空港の警備兵を攻撃、交戦が始まりました。数多くの弾丸が飛び交い、多数の人々が倒れます。 そのとき、「パトリック・アルグレロ隊」の周りには、民間人や団体客がいて、多くはイスラエル警備兵からの弾丸に倒れたと考えるのが理にかなっています。
人々が誰の弾丸によって倒されたのかを調べることで真相は判明します。しかし、イスラエル側は弾丸の調査をいまだに怠っているのです。








