【特別寄稿】AI時代、言語は誰のものか 論理・詩・身体から考える人間の言葉

福岡大学 名誉教授 大嶋仁 氏

 生成AIは、膨大な情報を整理し、もっともらしい言葉を瞬時に生成する。だが、その言葉は人間が身体を通じ、感情や沈黙、他者との関係のなかで紡いできた言葉と同じものなのか。論理を組み立てる言語、詩や感情を表す言語、生物としての人間に根差す言語──。チョムスキー、ヤコブソン、ルソー、本居宣長、岡ノ谷一夫らの思想を手がかりに、AI時代における言語教育と人間性の行方を考察する。

福岡大学 名誉教授 大嶋仁 氏
福岡大学 名誉教授 大嶋仁 氏

    AIが私たちの知的活動にとって必要不可欠となって以来、私たちの生活は大きく変化している。言語は知的活動の媒体でもあれば、その原動力でもあるが、その言語も当然ながら影響を被っているのである。ここでは言語というものの性質をまず見極めて、そこからAIの普及による言語への影響について考える。もしそこに一定の危険があるならば、それに対処する方策をも示したい。

論理のための言語

 AIが言語に与える影響について考えるにあたって、言語とは一体なんなのかを明確にしておかなければならない。

 この問題について明快な答えを出している筆頭は、おそらく言語学者のチョムスキーである。生成文法理論を展開し、言語の創造性に着眼した彼は、言語とは論理的思考を表現するだけでなく、それを発展させるものだと主張している(『デカルト派言語学』1966年)。

 その彼は、あらゆる言語は「名詞群」と「動詞群」の連結によって支えられていると主張し、それを「普遍文法」として提示している。この文法構造が人間の認知活動と連動しているというのであるが、名詞と動詞の組み合わせという図式は西欧語にこそ当てはまれ、中国語や日本語にはそぐわないと反論することもできる。

 しかし、チョムスキーならこれに対して以下のようにいうだろう。「言語の表層だけを見るからそう思うのであって、人間の脳は世界を名詞群と動詞群に分けて認知しており、それが言語に反映されているのだ」と。はたして、彼の主張は正しいのか。脳科学的な証明が待たれるところである。

 チョムスキーの論で思い出されるのは、古代インドのナーガールジュナの言語論である。この仏教哲学者が言いたかったことは、「言語はいかなる実体にも対応しないのに、これを使用していると、あたかも実体があるかのように思えてしまう、そこが危うい」ということだった(『中論』紀元2~3世紀?)。しかしそういう彼も、言語を名詞群と動詞群によって構成されるものと見ていたのである。

 もっとも、ナーガールジュナはチョムスキーのように言語を創造的論理の源泉として賛嘆していないので、2人の思想はまったく異なる。ナーガールジュナにとって、言語は「迷妄」の原因なのである。しかしながら、そうであっても、名詞群と動詞群という区分を文化以前の認識の問題として設定している点では2人は一致する。これは無視できないことだろう。

 さてチョムスキーは、言語は「創造的」なもので、その創造性は「自己生成能力」のことだと言っている。そして、その創造性は論理の構築に発現しているというのである。これについては多くの人が納得するにしても、彼が、同じ言語が詩歌を構築する創造性をもつことについてはほとんど言及していない点は問題が残る。たとえば『統辞構造論』(1957年)において、彼は「無色の緑が怒り狂って眠っている」という文を挙げて、これを「無意味な文」としているのである。

 この文は「通常の論理」を逸脱してはいるが、文法的に誤っているわけではない。しかもこれを「無意味」とするか否かは、彼が思うほど簡単ではない。詩的言語の表現と見ることは十分可能なのだ。

 チョムスキーの言語観とAIとの関係であるが、AIが論理学と数学を基礎にしていることから、そこには相同する部分があるといえる。まして生成AIともなれば、そこから自動的に繰り出される言語は、彼の「生成文法」理論と合致しているようにさえ見える。AIの言語生成がどの程度チョムスキー理論を反映しているかという問題は、研究に値するであろう。

詩的生成のための言語

 ロシア・フォルマリズム詩学の中心的存在ヤコブソンの言語観は、チョムスキーとは大きく異なる。彼は詩的言語の構造と機能の解明から言語学に入った人であるが、近代言語学の祖ソシュールを踏襲し、言語を1つの「記号システム」と見ている点が特徴的である。

 ヤコブソンとチョムスキーの違いは、チョムスキーがヨーロッパの論理中心主義に則って科学や数学における言語の「一義的普遍性」に言語の本質を見いだしたのに対し、ヤコブソンが記号論的立場から、私たちの日常会話や文学の言語のもつ「多義性」に言語の本質を見いだしている点である。ヤコブソンにすれば、一義性を重視する論理的言語は言語一般の特殊形態の1つに過ぎず、それを「普遍的」であるかのように扱うことは、言語の本質を見誤ることになるのである。

 ヤコブソンがいうように言語が本来「多義的」なものであるならば、言葉の意味の確定には「文脈」が必要となる。そのことは私たちの「日常言語」が端的に示しており、「詩歌」は言語の多義性を駆使したものなのである(『一般言語学』1963年)。

 この観点からすれば、言語の一義性を強調する科学者や数学者あるいは法律家は言語を窮屈な世界に閉じ込めていることにもなる。詩歌に限らず、「文法的に不完全」な日常言語も、それに比べればはるかに自由なのだ。

 ところで、ヤコブソン以上に詩的言語を優先させたのは、18世紀啓蒙思想家の代表ルソーである。彼は人類の言語は本来「感情表現」にあり、それはメタファーに依拠するものだと主張した(『言語起源論』1781年)。「詩歌」を「散文」に先行させ、人類は「話す前に歌っていた」とまで言ったのである。

 この言語観は非常に面白いが、根拠が示されていないために「独断的」であるように見える。彼とほぼ同時代の国学者本居宣長も同様で、宣長のいう「詩歌を学ぶことが人を人にする道だ」(『石上私淑言』1763年)という言葉も、直観から出てきたものに過ぎず、脳科学的な証明が必要となろう。

 AIとの関係では、ヤコブソン風にいえば、AIが発する言語は人類の言語の特殊な一面を前面に押し出しているに過ぎないことになる。従って、これに依存し過ぎれば言語の本質を逸脱してしまい、思考が論理の監獄に閉じ込められる危険性があることになる。ましてルソーや本居宣長ともなれば、AIは感情表出ができないのだから、言語の本質とかけ離れたものとなるのである。

 しかし、この考え方が正しいのかは疑問である。たとえば、AIを楽器として用いれば、人間のさまざまな感情を表現できるのではないか? AIにだって歌はつくれるし、歌うこともできる。そこに感情表現があると見るかどうかは、聞く人によって意見が異なるだろう。感情があるかないかの判断は、人間の外界への自己投影の有無によるのである。

生物の言語

 生物言語学者岡ノ谷一夫は、「鳥のさえずり」が人類の言語の根源だという説を立てた(『さえずり言語起源論』2010年)。長年の鳥類の鳴き声の研究から鳥の鳴き方には2種あり、異性を惹きつけるため、あるいは縄張り獲得を公にするためには「さえずり」をし、仲間同士での情報伝達には「地鳴き」をするというのである。これを人類の言語に当てはめると、情念を表現する「詩的言語」と公的な連絡に適した「散文的言語」の使い分けということになる。

 岡ノ谷は鳥の鳴き声には「文法」があることを種々の実験でたしかめ、とくにジュウシマツの鳴き方には「歌の生成」における創造的側面があることを見いだしている。すなわち、子は親の鳴き方を真似るだけでなく、鳴くたびに新たな「創造」をし、その鳴き方はほかの鳥のものとは必ず異なる独自性をもつようになるというのだ。言語生成の創造性を重視するチョムスキーの論と重なるものがある。

 岡ノ谷の生物言語論からAIを見れば、AIには「さえずり」の真似はできても、本当にできるのは「地鳴き」だけだということになろう。チャットのできるAIを「友人」や「コンサルタント」のように思っている人は、この点に十分気をつけるべきだろう。

生成AIと人間の違い 本質的に異なる思考

 AIと言語の関係を考えるにあたっては、第一に、AIが従来のコンピューターの発展形であることを押さえておく必要がある。すなわち、コンピューター同様、AIもあらゆる情報を数値化し、それを計算することで情報処理を行う機械であるということだ。ただし、数値化されたデータを扱う点で同じとはいえ、AIが人間にもたらす情報処理の体験は、従来のプログラムとは大きく異なる。従来のプログラムは人間が与えた手順に従って情報を処理していたのに対し、AIは膨大なデータから特徴や関係性を学習し、それを基に言語や画像などを生成する。この点で、AIは従来のプログラムとは質の異なる情報処理を実現しているのである。

 その結果、我々人間が体感するAIの発信力は、情報の網羅性と集約度が圧倒的だ。AIは与えられた問いに対して多種多様な情報を短時間で整理し、要約し、再構成する能力を示す。AIさえあれば多くの作業を短時間でこなすことができ、あたかも誤りのない答えを常に導き出すことができるかのように見えてくる。これは人類史上、かつてなかったことであり、ある種の「怖さ」を感じさせるものだ。

 このような圧倒的な威力を体感させるAIは、すでに社会と教育現場に浸透し始めている。これに適切に対処するには、学校教育の抜本的な見直しが必要になるだろう。つまり、これからの教育は、AIの原理とその適切な使用法を教育することが重要な使命になるということだ。これまでのように、知識を詰め込み、正解を再現させることを中心とした学習だけでは不十分になる。

 では、AIを教育で利用する場合の問題点とは何か。AIはたしかに模範解答を出してくれる。しかし、その回答に至った思考プロセスを示してくれることはない。より正確にいうと、生成AIは、回答に至る手順を生成的に説明することはできるが、それは人間が自分の思考過程を反省的に語るのとは異なり、あくまでも「説明」を新たに生成するに過ぎず、回答に至る実際の内部処理を人間の思考プロセスのように開示することはできないということだ。

 学習とは、問いに対する答えを出すことよりも、ある問いに対してどういうプロセスで答えに近づけるのかを考えることに本質がある。従って、AIを学習に利用するためには、AIが出した答えで終わるのではなく、また、AIが生成した疑似的な思考プロセスの「説明」をそのまま受け入れることでもない。AIが生成する「説明」が人間の思考プロセスと異なることを前提として、AIとは独立して自分自身の思考の道筋を探求する姿勢が必要なのである。

 このように人間と生成AIの内部プロセスは異なるため、人間が人間に対面したときに行う複雑なコミュニケーション、たとえば表面的な言葉としての情報を交換するだけでなく、言葉の裏側にある「相手の思考を読む」ようなメタ化された二重のコミュニケーションを人間は行うことができるが、生成AIはそのようなことはなし得ない。一見、生成AIがこちらの思考を読んでいるかのように見える場合があっても、それはあくまでもこちらが入力したテキストを一定のパターンとして把握し、それに対するもっともらしいパターンを返したに過ぎないのだ。それを誤解して、生成AIが人間と同じ思考プロセスを有していると「錯覚」すると大きな間違いを起こすことになる。

 このような生成AIと人間の思考プロセスの違いは、前半で述べた「言語」という面でいえば、「言語」の扱いが同じではないということになる。AIの教育現場への浸透が避けられない時代、「人間を育てる教育とは何か」を考えるうえで、このことは重大なポイントになる。この理解に立てば、AIを教育に取り入れるのと同時に、生身の人間との接触と言語的な対話の訓練が、これまで以上に求められるようになるだろう。これは現場の教師個人の努力だけで解決できる問題ではない。文科省を含めた教育行政が、AIリテラシー、対話教育、詩的言語教育を一体的に位置づけたプログラムを整備する必要がある。

 また、生成AIと生身の人間が扱う言語の違いという観点に立って、言語教育として論理的言語と詩的言語の育成を同程度に行うべきだ。論理的言語は、世界を整理し、判断し、説明する力を育てる。一方、詩的言語は、感情、身体感覚、他者との微妙な関係を言葉にする力を育てる。それをしないと、生物としての人間が育たない。

AIの功罪と対処法

 AIにも歴史があり、当初は論理計算の迅速さが売りだった。第二段階のAIは現実問題の解決に応用されるようにつくられたというが、現実問題のデータは巨大すぎて、AIでもなかなか処理できなかったという。国際政治の専門家はAIを使ってもっと状況分析をすればと思うのだが、地政学的分析には膨大なデータが必要だそうで、そこまで処理ができるAIはまだできていないようだ。

 AIが今日脚光を浴びているのは「生成AI」の出現によるものだ。多くのデータを基に「自立的」に論を組み立てる能力をもつ点が売りである。こちらがデータを提供すると、すぐさまそれに応じて論を組み立ててくれる。私たちは嬉しくなってそこに感情移入し、あたかも「主体的人格」がそこにあるかのように錯覚してしまう。

 生成AIの脅威はまさにそれで、使用者は自分とは独立した思考主体がそこに存在すると錯覚してしまう。孤独な人間であればあるほど、その存在に依存してしまう。コンピューターは「道具」であったし、初期のAIもやはり道具であった。ところが生成AIとなると、もはや道具ではないように思えてしまうのである。

 私たちの思考がAIの迅速さと有効性に追いつけないことから、人類はAIという主人の従僕にもなりかねない。生成AIとのチャットが原因で犯罪を起こしたり、自殺をしたりするケースも出てきている。しかし、それと同程度に善行を促進させることもAIには可能だ。すべてはこちらの問題であって、AIのものではない。

 生成AIが危険となるかどうかは私たちの使用の仕方の問題だ。そのうえでAI利用の言語に関する功罪をいうと、まず言語を論理の道具として用いる場合、極めて有用だということができる。だが、それが有用すぎて、そこにはまり込む危険性があると言っておこう。

 これを防ぐには、人と他愛ない雑談をしたり、あるいは一見ナンセンスと見える詩の本を読むとか、あるいは勝手に歌をつくってみるとかをすべきだろう。要はバランスの問題、ということになる。将棋の達人羽生善治は言っていた。AIと将棋をして行き詰まったら、仲間と馬鹿話をするのが良いと。なぜなら、そういう時に「よい手」が浮かぶのだそうだ。

 先にも述べたように、学校教育の改革が絶対必要である。AIの有効かつ安全な使用法を早いうちに身につけさせること、今まで以上に身体教育と詩的言語教育に意を注ぐこと。この2点がこれからの世界では重要になってくる。


<PROFILE>
大嶋仁
(おおしま・ひとし)
1948年生まれ。福岡大学名誉教授。からつ塾運営委員。東京大学で倫理学、同大学院で比較文学比較文化を修め、静岡大学、ペルー=カトリック大学、ブエノスアイレス大学、パリ国立東洋言語文化研究所を経て、95年から2015年まで福岡大学にて比較文学を講じた。最近の関心は科学と文学の関係、および日本文化論。近著に『科学と詩の架橋』(石風社)、『生きた言語とは何か』(弦書房)、『日本文化は絶滅するのか』(新潮新書)、『森を見よ、そして木を』(弦書房)、『言葉と手仕事の心』(弦書房)などがある。

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