画家・劇団エーテル主宰 中島淳一
映画には、不思議な残酷さがある。
スクリーンのなかの人間は、老いない。現実の時間がどれほど流れようとも、フィルムのなかの女優は、最も美しかった瞬間の姿で永遠にそこにいる。
岸惠子もまた、そういう女優の一人である。スクリーンに光が射す。暗闇のなかから、一人の若い女性の顔が浮かび上がる。
整った横顔。強い眼差し。どこか憂いを含んだ表情。その顔を見ただけで、戦後日本映画の一時代を思い出す人がいる。
『君の名は』
岸惠子を国民的スターへ押し上げた作品である。映画が娯楽の王様だった時代、映画館には人々が列をなし、スターは現在とは比較にならないほど巨大な存在だった。岸惠子は、その中心にいた。彼女の髪型は女性たちに模倣され、ファッションは注目され、その恋愛や結婚までがニュースになった。
やがて「大女優」という言葉が、岸惠子という名前の前に置かれるようになる。
だが、私はここで立ち止まりたい。大女優とは、いったい何なのだろう。
優れた演技をする女性のことなのか。数多くの名作に出演した女性なのか。多くの観客から愛された女性なのか。あるいは長い歳月を生き延び、いつしか周囲から「伝説」と呼ばれるようになった女性なのか。
「大女優」という言葉は最大級の賛辞である。しかし同時に、その言葉は一人の人間を覆い隠す仮面にもなる。
岸惠子
その名前には、いくつものイメージが重なっている。昭和の銀幕を代表する美貌のスター。『君の名は』のヒロイン。フランス人映画監督イヴ・シャンピと結婚し、人気絶頂期の日本を離れた女性。パリに暮らした国際派女優。世界を歩き、紛争地を見つめたジャーナリスト。そして、自ら文章を書き続けた作家。
どれも岸惠子である。しかし、どれひとつとして岸惠子のすべてではない。
その華麗さの背後に何があったのか。
なぜ彼女は、スターとして最も輝いていた時期に日本を離れたのか。なぜ遠いフランスで生きることを選んだのか。結婚は彼女に何を与え、何を奪ったのか。妻になり、母になっても、なぜ彼女は「岸惠子」であり続けようとしたのか。
そして、なぜ女優という仕事だけでは満足せず、自分の足で世界を歩き、自分の目で戦争や社会を見つめ、自分の言葉で文章を書くようになったのか。
そこには、おそらく一つの衝動が流れている。
「自分の人生を、他人に決めさせたくない」
岸惠子という女性の人生を眺めていると、私は何度もこの言葉に行き着く。
映画会社がつくり上げるスター像。観客が期待する清純なヒロイン像。日本社会が女性に求めた妻の姿。フランス社会のなかでの日本人妻という立場。母という役割。そして「大女優」という称号。
岸惠子は、生涯にわたっていくつもの役を与えられてきた。女優なのだから、役を演じることは仕事である。しかし人生まで、誰かから与えられた役を演じなければならない理由はない。そのことを彼女は、非常に早い時期から知っていたのではないだろうか。
だから海を渡った。だから異国で暮らした。だから結婚生活が終わった後も、自分の人生を自分で組み立て直した。
そして、見る側と見られる側の関係さえ逆転させていった。
若いころの岸惠子は、カメラから見つめられる女性だった。何百万という観客が、スクリーンのなかの彼女を見つめた。ところが後年、岸惠子自身が世界を見るようになる。中東へ行く。戦争や紛争の現場を見る。異なる文化のなかで生きる人々を見る。日本という国を、外側から見る。そして最後には、自分自身を見る。
「見られる女」から「見る女」へ
私はこの変化こそ、岸惠子の人生を考えるうえで非常に重要だと思っている。
さらに彼女は、書くようになった。
俳優は、基本的には他人が書いた言葉を語る。脚本家が書いた台詞を覚え、監督の演出を受け、カメラの前で別の人間になる。だが文章を書くとき、そこには監督はいない。カメラもない。照明もない。衣裳もない。ただ、自分と自分の言葉だけが残る。
岸惠子にとって「書く」という行為は、女優業の余技ではなかったのではないか。
それは、自分の人生を他人の脚本から取り戻す行為だったのではないか。
もちろん、「大女優」が虚像で、「一人の女性」が実像だ、と単純に分けることはできない。スクリーンの岸惠子も本物である。パリで暮らした岸惠子も本物である。妻だった岸惠子も、母だった岸惠子も、作家になった岸惠子も本物である。
人間には、おそらく一つだけの「実像」など存在しない。私たちは誰でも、他人から見られる自分と、自分だけが知っている自分とのあいだを生きている。スターにはスターの真実がある。神話には神話が生まれた理由がある。
華やかな映画界。パリの街。国際結婚。離婚。母としての日々。世界への旅。戦争への視線。そして老い。
それらを一つずつ辿りながら、私は「大女優」という言葉の奥にいる、一人の女性を見る。
夜のパリを想像する
セーヌ川の水面に街灯が揺れている。遠くにエッフェル塔が浮かんでいる。その街を、一人の日本人女性が歩いている。誰も彼女を「大女優」とは呼ばない。映画館の歓声もない。カメラもない。ただ、一人の女性が、自分の足で歩いている。
もしかすると岸惠子の人生を理解するために必要なのは、銀幕の中央で輝いている彼女を見ることではないのかもしれない。
光が消えた後。拍手が止んだ後。誰にも見られていない場所で、それでも歩き続けている一人の女性を見ることなのかもしれない。
大女優の神話の向こう側に、何があったのか。岸惠子は美しい謎を残して去っていった。









