現代日本の政治的病(2)ジェイソン・モーガン

福岡大学名誉教授 大嶋仁氏

 民主主義の原理からいえば、「一党独裁」は許されない。しかし、日本の戦後はほとんど一党独裁である。野党は存在するが、与党を際立たせる脇役でしかない。これを許してきたのは、政治家ではなく、国民である。

 これを言い換えれば、日本国民には、日本を「民主国家」にしようという意欲はないということだ。もともと民主主義は海外から輸入されたもので、日本人が欲したものではなかった。だから、当然といえば当然のことなのである。今ここで問われるべきは、「あなたは日本を民主国家にしたいですか?それとも、今までのままでいいと思うのですか?」である。

 高市早苗は腐敗しきった自民党政治の「バブル」である。しかし、たとえそれが消え去っても、自民党は変わらない。自民党が変わらないということは、日本国民が変わらないということである。「末法」から抜け出ることは難しい。

 麗澤大学にジェイソン・モーガンというアメリカ人教員がいる。歴史が専門だというが、日本の政治に遠慮なく口出しをしている。多くの親日家とちがって、現在の日本の政治状況にかなり大きな不満をもち、その思いを過激なトーンでYouTubeなどで語っている。

 氏の発言はたいていが聞くべき中身をもっている。無責任な発言はない。アメリカ政治と日本政治についての知識も半端ではない。氏はいわゆる「深掘り」の人である。

 氏は臆面もなく「日本愛」を口にする。口にするだけでなく、行動でも示している。靖国神社への参拝を欠かさないのも、その一例だ。氏にとって、近代日本の戦争は、日本人が己の命を「大東亜」の大義のためにささげた戦争であり、これは自己犠牲の美徳の最上の実践だったのである。

 つまり、氏は戦争で死んでいった日本人を「殉教者」と見ており、「大東亜」のための戦争を「聖戦」と見ている。氏が靖国神社を「聖地のなかの聖地」として崇めているとして、なんの不思議もないのだ。

 このような思想をもつ氏にすれば、現在の日本政府はもちろんのこと、戦後のどの日本政府も、アメリカに追従する「情けない政府」ということになる。そして、そのような政府になんの疑問も抱かずにいる大半の日本人に対し、相当の苛立ちを感じている。「日本人よ、目覚めよ」とは、氏の口から何度も出て来る言葉である。

 氏にとって、「大東亜戦争」は文字どおりアジアを「白人支配」から解放するための戦争であった。そのおかげでインドは独立し、東南アジア諸国も欧米勢力から独立することになったという論理である。それなのに、戦後の日本ではこうした見方がタブーとなっており、それが日本人から「誇り」を奪うことになっている。氏には、これが遺憾なのだ。氏は日本人に「もっと歴史を勉強しなさい」と声高に叫ぶ。「失われた誇り」を取り戻してもらいたいのだ。

 モーガン氏のこのような戦争観は、一見して美しい。しかし、林房雄の『大東亜戦争肯定論』にも似て、イデオロギーに傾きすぎているところが気になる。日本の戦争は決してナショナリズムの戦争ではなく、帝国主義の戦争でもなく、むしろ「帝国主義を撲滅するため」であったという氏の論理。石原莞爾のみならず、東條英機も抱いていたものである。そこには極端な戦争の美化、あるいは聖化がある。これは、多くの日本人が戦場で味わった酷い体験とはかけ離れたものなのである。

 氏が思うような「聖戦」は、本当にこの世にあるのだろうか。氏は戦争を知らないから、そんな理想を抱くのではないか。氏はアルカイダのようなテロ組織を擁護するのだろうか。彼らとて、「アメリカ帝国主義」と戦おうとして殺戮行為に出たはずである。

 もし日本の戦争が「大東亜」のためのものだったなら、どうして朝鮮半島を植民地化し、満州国を建設し、泥沼のような日中戦争にのめり込んでいったのか。朝鮮半島も中国大陸も、欧米の植民地ではなかったではないか。

 氏の考え方には、このように納得できないものがあるが、私にとって興味深い人物であることに変わりはない。アメリカ人でありながら、一体どういう経緯で、日本の戦争についてそのような思いを抱くことになったのか。

 あえて無謀な分析をすれば、氏の出自にその動機があると思う。氏は自身もいうように「チェロキー族の血」を引いている。それだけでなく、これまでアメリカで最も「問題の多い異質の地域」とされてきたルイジアナ出身である。ルイジアナといえばジャズのメッカであり、黒人文化とフランス文化が混交した地域である。アメリカの主流であるプロテスタント白人文化とは異質なのだ。どうやらルイジアナには、アメリカの支配層である「北部の白人」が隠蔽してきた「真の顔」が見つかるような気がする。

(つづく)

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