2024年04月17日( 水 )

【斎藤貴男氏寄稿】「人でなし」のイデオロギー・新自由主義 蘇る、社会ダーウィニズムの悪夢(2)

記事を保存する

保存した記事はマイページからいつでも閲覧いただけます。

印刷
お問い合わせ

ジャーナリスト 斎藤 貴男 氏

新自由主義者たちの“懺悔”

 彼らはなぜ、あれほど信奉していた新自由主義に疑念を抱くようになったのだろうか。批判論者に転じた中谷氏には、私自身が問い質したことがある。彼の『資本主義はなぜ自壊したのか』が出版された08年の師走だった。

 「私は10年くらい前(引用者注・現在からだと20年前)まで、『経済戦略会議』の委員として首相官邸に出入りしたり、構造改革に向けた政策的な発言を重ねていました。ただ、思うところあってというか、ひょっとしたら間違っていたかもしれないと考えるようになって、その後はそうした現場には足も踏み入れずに発言も控えて、自分なりに勉強を続けてきた。
 思いつきで『転向』宣言したのでは一緒にやってきた人たちに申し訳ないので、一生懸命にインプットしたつもりです」

 ――具体的には?

 「たとえば郵政改革で、郵便貯金のお金が自動的に道路建設に向かうような財政投融資の構造を打破することができました。それは結構だったのですが、その一環で全国の郵便局を民営化して、村落共同体の要のような部分まで統廃合の対象にしたことが本当によかったのかなと。必要なこともやったけれども、温かみが足りなかった。クール・ヘッドとウォーム・ハートの組み合わせが大切なのに、いつの間にかクール・ヘッドばっかりで、冷たい社会になってしまった。
 実際、この7、8年の日本社会はどんどん荒んできましたよね。新自由主義は人間を孤立させ、もう何か注目を集めて刑務所に入ったほうが良いやというぐらいにデスペレート(絶望的)な若者も増えているようです。これはまずい、何とかしないといけないということですね。そんなのお前の勝手だと言われそうだけれど」(詳細は拙著『経済学は人間を幸せにできるのか』平凡社/2010年に所収)。

 赤裸々な告白だった。中谷氏の話を聞きながら、私は彼の率直さに好感をもったが、同時に新自由主義が必然的に招くに違いない荒廃を、一流大学の教授ともあろう人が、どうして予見できなかったのかと不思議でならなかったことも思い出す。

 本当に呆れたのはこの先だ。日本における新自由主義の唱道者だった人物による“懺悔”の叫びは、一部の活字ジャーナリズムではそれなりの反響を集めもしたけれど、現実の経済政策では完全に黙殺された。新自由主義という、中谷氏の表現を借りれば「アメリカやヨーロッパのエリートたちにとって都合の良い思想」が、そのまま生き永らえ、近年は“懺悔”当時以上の猛威を振るいまくるに至っている。

 だからこそ、往時は新自由主義を政策化させるだけでなく、推進のインサイダーとなった立場で構造改革関連ビジネスを展開し、“政商”の異名を取った宮内氏までが、行き過ぎを認めた(ちなみに09年に問題化した、郵政民営化にともなう「かんぽの宿」のオリックス不動産への一括売却契約は、白紙撤回されている)。

 改めて指摘するまでもなく、宗旨替えした元・新自由主義者は中谷、宮内の両氏ばかりではない。本稿では彼らが著名で影響力が甚大だったから名指しで取り上げるだけで、同様の思いでいる人々は無数にいる。そして新自由主義がもたらした弊害もまた、お2人の守備範囲だけに納まるものでないことは明らかだ。

 もっといえば、現代のこの国で顕在化している諸問題の大方は、ここに起因しているのではないかと、私自身は考えている。にもかかわらず「新自由主義」の用語を近年はあまり見かけなくなったのは、それがもはや支配的なイデオロギーであるからか、批判的なニュアンスを帯びがちなのでメディアが政府に忖度するせいか。おそらくは両方だ。

(つづく)

(1)
(3)

関連記事