2024年04月25日( 木 )

人類の未来と日本(2)

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 つい先日、ある若い陶芸家と話していて、こんなことが話題になった。何人かの作家の焼物を手にとって、ああだこうだと言い合っていた時だ。
私は非常に美しいが、なにかが足りないと感じさせるある器を眺めながら、それが彼の作品ではなかったこともあって、気楽にこう尋ねた。「これ、どう思う?」

 するとその陶芸家、少しためらってから以下のように答えた。「これ、やっぱり、機械にでもできそうな気がします。」

 「なに?こんな手工芸品まで、機械でできるようになっちゃうの?」と私が驚くと、「多分、できるようになると思います。ですので、僕なんか、どうしても機械じゃつくれそうもないものをつくろうって、そう思うんです。」

 この話は驚きだったが、驚くこともない。おそらく、きっとそういう時代が来るのだ。そうなると、大半の陶芸家は職を失う。私たちは量産される「名品」を安価で楽しめるようになる。

 むろん、量産される名品などあり得ない。そう思えばこそ、本物の陶芸家は「本物の焼物」を目指す。決して機械ではできそうもない領域を確保し、それを必死に守り抜こうとする。

 「じゃあ、機械じゃつくれない焼物って、どういうもの?」と私が尋ねると、彼は笑った。
 「土の感触、焼いた跡、そうしたものが見えるものでしょうかね。そういう風につくらないと、工業製品になっちゃうんです。」

 つまり、土、そして火。これは人工知能が到達できないものなのだ。
 土と火。これこそは焼物の生命であり、原点だ。形が美しい、色合いがいい、そういう「高尚なアート」は機械に任せれば良いのだ。もっと「低級」、というか「原始的」なもの、それが焼物なのだ。

 そもそも焼物は新石器時代の産物といわれる。火を使って料理をする。田畑を耕す。そうした技術はすべて新石器時代に生まれ、今日まで続いている。機械文明が発達し、世界は機械だらけになり、私たちも朝から晩まで機械をいじり続けているが、それでも新石器時代から抜け出すことはない。私たちは時がたっても、ずっと新石器時代人だ。

 近代人はそこから抜け出すことが多い。しかし、そうなると不安を覚えてあわててアウトドア生活を求める。野外で火を焚いて、何ともいえない満足感を得るのである。焼物にしてもそうである。立派な磁器をもっていても、やはり「土もの」を手にしたくなる。あの感触は、あれは間違いなく新石器時代の証しなのだ。

(つづく)
【大嶋 仁】

<プロフィール>
大嶋 仁(おおしま・ひとし)

1948年鎌倉市生まれ。日本の比較文学者、福岡大学名誉教授。 1975年東京大学文学部倫理学科卒業 1980年同大学院比較文学比較文化博士課程単位取得満期退学。静岡大学講師、バルセロナ、リマ、ブエノスアイレス、パリの教壇にたった後、1995年福岡大学人文学部教授に就任、2016年に退職し、名誉教授に。

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