2024年04月25日( 木 )

2019年の注目経営者、日産自動車の西川廣人社長兼最高経営責任者(CEO)~「ゴーン・チルドレン」は修羅場を切り抜けることができるか?(前)

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 2019年、日産自動車のカルロス・ゴーン前会長の呼び方は容疑者から被告に変わる。同時に、ゴーン被告の反撃が始まる。無罪を主張するゴーン被告と東京地検特捜部との死闘。仏ルノーと日産の提携関係をめぐるバトル。そして復讐の鬼と化したゴーン前会長による「ゴーン・チルドレン」西川廣人社長兼最高経営責任者(CEO)に対する逆襲だ。

ゴーン・チルドレンの面々

 カルロス・ゴーン氏が日本経済新聞に連載(2017年1月1日~31日)した『私の履歴書』(以下、「履歴書」)は、『カルロス・ゴーン 国境、組織、すべての枠を超える生き方』(日本経済出版社)に収録されている。
『履歴書』に現役の経営陣3人の名前が出てくる。元最高執行責任者(COO)で取締役・志賀俊之氏、社長兼CEOの西川廣人氏、専務執行役員・川口均氏の3人だ。

 ゴーン前会長に引き上げられて経営首脳となったゴーン・チルドレンの面々だ。3人とも1953年生まれ。ゴーン氏は1954年の早生まれだから4人は同世代である。

 1999年6月、日産の株主総会で、ゴーン氏は代表取締役COOに就いた。仏ルノーから日産の再生のために送り込まれたゴーン氏は再生計画に取り組む。

〈日産自動車の再生計画は社員が自ら作ったものだ。各部門から集められた中間管理職の「クロスファンクションチーム」(CFT)が中心を担った。1チーム10人。購買、生産、財務などの10のチームに分かれ、詳細を詰めていった〉(『履歴書』より)

 CFTのチームリーダーからゴーン・チルドレンが生まれた。

日産のナンバー2に大抜擢された志賀俊之氏

 志賀俊之氏は、「カルロス・ゴーンを日本に連れてきた男」と呼ばれる。大阪府立大学経済学部卒業。塙義一氏が社長時代に本社の企画室長を務めていた。志賀氏は1998年11月、ルノー副社長のカルロス・ゴーン氏を招いて、日産の副社長たちへの講演を企画した。

 ゴーン氏の迫力あるリーダーシップに心を打たれた志賀氏は、「この人の下で働きたい」と塙社長に、ゴーン氏の必要性を説いたという。

 志賀氏は1999年に日産がルノーと提携し、COOとなったゴーン氏の下、アライアンス(連携)推進室長を兼任。現場とのパイプ役として、ゴーン改革の第一弾「日産リバイバル・プラン」を立案。5工場を閉鎖し、2万1,000人を削減、2000年4月に常務執行役員に就く。2005年4月、ゴーン氏につぐナンバー2のポストである最高執行責任者(COO)に就いた。

 2005年5月、ゴーン氏はルノーのCEOに選出された。ルノーのトップを兼務してからは、1カ月のうち日本に居るのは3分の1になった。

〈私とともに経営にあたるCOOのポストをつくり、志賀俊之常務を指名した。私の時間の半分はルノーのためのものなので、日産だけのトップの時のように細部まで目配りができない。〉(『履歴書』より)

ルノーとの共同購買で頭角を現わした西川廣人氏

 西川廣人氏は東京大学経済学部卒で、東大閥の日産の本流を歩いた。辻義文社長の秘書として経営の中枢にいたが、塙社長政権では欧州日産に出された。ゴーン体制の2000年10月、欧州日産の購買企画部長に就くと、ゴーン氏と英語で会話できることから重用された。

 頭角を現わしたのは、ルノーとの共同購買だ。2001年4月、ルノー・日産の共同購買のゼネラルマネージャーに就き、商品の原価低減や鉄の集中購買で陣頭指揮を執った。その功績が認められ2003年4月、日産の常務執行役員。2005年4月、取締役副社長に就任。購買部門副社長を務めるとともに、南北米地域や欧州の経営会議議長を務め、世界中の要職に就いた。

 2005年、日産はゴーンCEOの下、国内は志賀COO、海外は西川副社長体制になった。

 志賀氏と西川氏はゴーン改革を支えた「ゴーン・チルドレン」の代表格である。よくいえば、ゴーン氏が運転する自動車の「車の両輪」だ。社内では、「ゴーン黄門さまに仕える助さん、格さん」と陰口を叩かれた。しかし、ゴーン黄門さまに忠誠を競う、助さんと格さんの仲は悪かった。

(つづく)
【森村 和男】

(中)

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