2024年03月29日( 金 )

中国現地ルポ-広州・杭州・長春・北京-(10)

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福岡大学名誉教授 大嶋 仁 氏

日本に戻って

 北京社会科学院での講演を行ったのは4月2日。その前日、日本では新元号の発表があった。講演前、科学院院長に挨拶したとき、「元号が令和となりました。どう思われますか?」と尋ねられた。日本にいたら実感があっただろうが、すでに日本を離れて一カ月。何とも答えようがなかった。

 居合わせた日本文学研究者の1人がこう言った。「現在の日本は西欧寄りといえるのですが、それでも万葉集を重んじ、元号も漢字2文字です。これは、日本が中国文明圏に属することを自ら認めている、ということではないでしょうか」

 言われてみれば、そうだった。明治維新以来、西欧化に邁進してきたとはいえ、第二次大戦で敗戦しても、言語を英語にしたり、文字をアルファベットにしようとはしなかった。あくまでも漢字を用い、その漢字をもとに西洋の概念を翻訳して今日に至っているのだ。

 カタカナ言葉が氾濫し、漢語が減少傾向にある。とはいえ、日本の置かれた地政学的位置からすれば、それにも限度があろう。漢字を使用する限りにおいて、韓国や北朝鮮とは異なり、日本は依然として中国との深い縁を保つ。日文研の劉建輝氏が言ったように、「日中二千年」なのである。

 日本に戻り、改めて新元号について考えた。万葉集に詳しい友人とも話した。そして得た結論は、「令和」という元号が万葉集に由来するのなら、万葉集とは大和が朝鮮半島との縁を断ち切ってでも急速に唐の文化を摂取した時代を代表するものであるだけに、この元号には中国との関係が暗示されているということである。

 新元号を考案した人が誰であれ、「令和」の二字が漢籍に由来することはたしかであり、となると、この元号で中国との新たな関係のヴィジョンを表していると見ていいわけである。無論、そうした意図は無意識のもので、採択した人も気づいていないだろうが、漢字の威力はすさまじいもので、その影響は日本人全体におよぶ。

 では、どのような関係が、その2字に暗示されているのか。

 「令」は秩序だった美しさと清潔さを表す。出典の万葉集では「月」と「梅」と関連づけられている。また、音の面からは「冷」を連想させる。つまり、決して華やかで暖色に満ちてはいないが、地味で冷静な美しさを放つ文字なのである。

 関連する「梅」は、何といっても平安時代における漢詩の達人・菅原道真の愛好した花だ。道真は遣唐使廃止を提案した張本人だが、彼の教養は徹底して漢学だった。日本での花は「桜」が一番で「梅」ではない。「梅」はむしろ中国的美学を映す。となると、「梅」は中国への接近を象徴することになる。

 中国への接近が「令」の字によって暗示されるとしたら、「和」はどうか。平和を意味すると同時に、「大和」の「和」でもある。つまり、中国とは友好的でありながら、「大和」のアイデンティティーを失うまい、という意味合いなのである。このような解釈の仕方を奇異に思う人もあろうが、フロイトが開発した夢解釈の方法と通じるものだ。精神分析を知る人なら、不思議に思わない方法である。

 日本は再び中国と接近し、それによって国際社会に生き残ろうとするのだろうか。それとも、いつまでもアメリカ勢力圏にとどまろうとするのか。政治家の判断といっても、大局的には国際情勢が決めることである。宇宙にはリズムがあり、地球もそのリズムに呼応するのだとすれば、その地球のリズムが世界史をも決定することにもなる。となると、その決定因子を読み解くことが重要なのだが、今のところ、誰にもできそうにない。

 いずれにしても、1カ月の中国旅行から帰って思うのは、中国はとてつもない国だということである。そのとてつもなさは広大な国土と悠久の歴史の産物であるにちがいないが、何よりも人の顔の多様さ、人の声の多重性となって記憶に残る。少数民族が56もあるからではない。長い歴史のなかで何度も外部から異民族に侵入されにもかかわらず、「中国」であり続けたことの生み出す多様性なのだ。

 このことは、アメリカと比較すればよくわかる。西海岸でもニューヨークでもフロリダでも、どこでもアメリカはアメリカ。イギリスの哲学者ラッセルが言ったように、「多民族国家でありながら、驚くほど画一的」なのだ。その画一性はマルクーゼが指摘したように、高度な技術文明のせいで最も効率的なものだけが生き残れるシステムを確立したことによる。この威力と影響力は現在の世界を席巻しているのだが、それと真っ向から対立するのが多様性に満ちた中国、そしてインドなのである。

 問題はそういう中国やインドが技術革新に埋没し、彼らもついに画一主義の奴隷と化すか、否かである。私の答えは楽観的か悲観的かわからないが、単純である。「自然は人類の高度な技術よりはるかに強い」というものだ。したがって、人類のなかの「自然」を確保できたものだけが生き残るのである。

(了)

<プロフィール>
大嶋 仁 (おおしま・ひとし)

 1948年鎌倉市生まれ。日本の比較文学者、福岡大学名誉教授。 75年東京大学文学部倫理学科卒業。80年同大学院比較文学比較文化博士課程単位取得満期退学。静岡大学講師、バルセロナ、リマ、ブエノスアイレス、パリの教壇に立った後、95年福岡大学人文学部教授に就任、2016年に退職し、名誉教授に。

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