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2015年04月23日 07:05

怪物・カマチグループ創設者、蒲池真澄氏(15)

 

<学校法人立ち上げ、理念もった人材を育成>

 ところでカマチグループの東京進出はなぜ成功したのか。それは蒲池眞澄氏がリハビリ病院事業を展開していく仕組みを実行する前に、学校法人を立ち上げ、「早期リハビリと早期在宅復帰」という蒲池氏の理念が浸透したリハビリ職員の増員を大々的に行ったところにあった。また東京進出を、福岡を主幹とした池友会から切り離し、巨樹の会として別展開していったことも効率化に繋がった。

<巨樹の会の大本は大洋漁業に始まる>

 巨樹の会という名称ができたのは2010年と比較的最近のことだが、ルーツをたどると、長い歴史がある。もともとは蒲池氏が理事長となり経営していた社団法人下関診療協会を改名したものだ。
 遡れば、現マルハニチロの前身である大洋漁業へと行きつく。その大洋漁業の創設は明治末期に山口県下関市に本拠地を置いた林兼商会だった。これがやがて大洋漁業と林兼商会へと分かれ、再度大洋漁業が林兼商会を合併した。この林兼商会の流れで、大洋漁業が1954年に公益性が高い林兼診療協会を設立、林兼病院を開設した。

 95年には同病院を彦島病院に名称変更するも、2002年4月、医師体制の確保と施設の老朽化に対応できず、医療法人財団池友会に経営を移譲。蒲地氏が理事長となった。
 このとき彦島病院は、医療療養病床49床に加えて、介護療養病床48床、通所リハビリテーション20人を持っていた。以後、法人名は社団法人下関診療協会となり、彦島病院は04年に下関リハビリテーションン病院と合併。全3病棟、165床の回復期リハビリテーション病棟と規模を拡大させた。

<回復期リハビリ病棟への追い風を先読む>

simonoseki_riha 下関リハビリテーション病院は、もとは蒲池氏が医師としての第一歩を歩み始めた下関カマチ病院だった。下関第一病院と改名され、老朽化が進んだところで廃院の話が浮上した。
 そこで蒲池氏が、「今後、救急医療とあわせてリハビリ病棟の充実を図るために、下関第一病院をリハビリ専門病院にする」という経営改革案を立て、当時小文字病院リハビリ部長だった山崎嘉忠氏を事務局長として送り込んだ。
 その後1998年に改装費に8億円を掛けて、下関リハビリテーション病院がスタート。成功を収め、これを皮切りに、北部九州にリハビリ病院が次々と立ち始めた。

 2000年の介護保険法施行により、厚労省が急性期患者の寝たきりを防ぎ、自宅への復帰を促す方向を打ち出したのにともない、回復期リハビリ病棟を新設した。民間事業へも介護の道が開かれ、リハビリ医療が今後発展していく兆しが見え始めたこの時、下関リハビリテーション病院の開設の第一人者でリハビリ事業の要であった山崎氏が独立して民間介護事業会社(株)シダーを立ち上げる。有能な社員は社内で経営幹部として出世させていくという方法もあっただろうが、蒲池氏は積極的に独立を支援した。

<東京進出の前にリハビリ学校を一気に設立>

 そのシダーは設立の翌年の2001年、関東へ進出し、千葉県の八千代市にデイサービスセンターを開設させた。このとき蒲池氏はリハビリ病院事業の展開先として、関東地区を市場に見定めた。「関東地方、とくに首都圏はリハビリ職員が圧倒的に足りない。今、増員させれば、東京に大きく打って出ることができる」。そう確信した蒲池氏は、まず、八千代市(千葉県)と小倉、下関にリハビリ学校を設立し、リハビリ職員の育成を始めた。学校運営のノウハウは、すでに1995年に和白へ福岡看護学校を設立したときから培っていた。
 2003年には、シダーが最初に関東進出の場とした八千代市の八千代リハビリテーション病院を買収。同時期、地元では彦島病院を買収し、下関リハビリテーション病院の規模拡大を図った。

enkaku

 

(つづく)

<プロフィール>
kamati_pr蒲池 真澄
学校法人福岡保健学院創設者、社会医療法人財団池友会理事長、カマチグループ会長。
1940年4月14日、福岡県八女郡黒木町生まれ。蒲池家は江戸中期から8代続いた医師の家系で、蒲池真澄で9代目となる。59年 福岡県立修猷館高校卒業、65年九州大学医学部卒業。東京虎ノ門病院でインターン(1年間)、九大大学院医学研究科、下関市立中央病院、福岡大学医学部を経て、74年に今日の池友会グループの礎となった下関カマチ病院を開院し独立した。

 

 

 

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