2024年04月27日( 土 )

ゆとり教育抜本見直しに命をかけた20年(1)

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進学塾「英進館」館長/国際教育学会理事/福岡商工会議所議員
筒井 勝美 氏 78歳

 彼が子どもたちの学力低下に気づいたのは、マスコミなどで「ゆとり教育」の問題が表面化する1998年(平成10年)より何年も前のことだった。彼は79年(昭和54年)、福岡市で進学塾「英進館」を創立。10数年経った頃だが、年に2、3回開いていた同業の学習塾長との会合の席で、「今の子どもたちはできが悪いね」「方程式が解けない」「文章問題もヒントを与えないと理解できない」という会話が飛び交っていた。

 子どもたちの学カ・思考力が年々低下していることは、塾での経験で一般の人よりは敏感に感じていた彼は、実際にデータを取ってたしかめてみようと考えた。

 94年(平成6年)から3年間、塾生の中学3年生約2,500名に同一問題・同一時期での学カテスト(五教科)を実施した。すると300点満点中、94年が207点、95年は197点、96年は190点と、明らかに年々学力が低下しているデータを得た。この結果に驚いた彼は、さらに教科書の内容も調べてみた。

 すると中学での数字は、96年までの約30年間に実に30%強の内容が削減されていた。理科はさらにひどく40%も削滅され、中学3年間で学ぶ化学反応式に至っては、僅か5分の1ほどに少なくなっていた。理数科目に限らず、ほかの教科でも同じように減らされていて、日本の公教育がいかに大幅な学習内容の削滅を行ってきたかという事実を知り、彼はわが目を疑った。

 「科学技術立国ニッポン」と言いながら、とくに理数教育の削減は、元エンジニアの彼にとって看過できない由々しき問題だった。この時から彼の文部科学省に対する「脱ゆとり教育」の闘いが本格的に始まった。

 ところで彼は、教師上がりが多い学習塾業界のなかでは異色の経歴をもつ存在だ。太平洋戦争開戦の41年(昭和16年)福岡市に生まれた。福岡県立修猷館高校から九州大学工学部へ進み、63年(同38年)に卒業後、九州松下電器(現・パナソニックシステムネットワークス)にエンジニアとして入社した。ラジオ部技術課で防水ラジオの開発などに携わり、入社から14年後には工場長代理に昇格。病気の工場長に代わって約500人の部下を指揮していた。そんな中、「マレーシアのクアラルンプールに設立する新工場に、設立責任者として赴任せよ」との社命が、78年(同53年)6月に下った。

 仕事人間の彼にとってはまさに男子の本懐であったが、妻・幸子はあまり体が丈夫でなく、2人の息子(小3、小1)の教育環境という点でも海外生活には反対が強かった。上司からは強く慰留され大いに悩んだが、社長命令を断る以上は会社を辞めるしかないと決断。辞令から2週間後に退職願を提出。半年間の業務引き継ぎ期間を終え、多くのことを学ばせてもらい未練はあったものの、九州松下電器を円満退職した。

 79年(昭和54年)1月、37歳の時だった。さて第二の人生、何にチャレンジするか?

 まったく白紙の状態だったが、退職後も彼の心に残っていたのが、松下電器産業創業者・松下幸之助氏の言葉だった。「松下電器は物をつくる前に人をつくる」。

 自分も物づくり16年間の経験を生かして、日本の将来を担う優秀な人材を育ててみたい。九大生時代は家庭教師のアルバイトもして、人に教えることはもともと好きだった。家族教師が縁で結婚した妻とじっくり相談。「未知の世界だが、教育に賭けてみよう」と学習塾の経営を選択した。子どもたちも賛成してくれた。やる以上は勉強の補習が主目的の塾ではなく、一流の進学塾を目指したい。スタート時の塾の名称は「九州英才学院」。彼の決意と気概がうかがえるネーミングだった。

(つづく)
【本島 洋】

<プロフィール>
筒井 勝美(つつい・かつみ)

1941年福岡市生まれ。63年、九州大学工学部卒業後、九州松下電器(株)に入社。1979年「九州英才学院」を設立。その後「英進館」と改称。英進館取締役会長のほか、現在公職として国際教育学会(ISE)理事、福岡商工会議所議員、公益社団法人全国学習塾協会相談役等。2018年に紺綬褒章受章

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