2022年08月13日( 土 )
by データ・マックス

創業者、池森賢二会長は、なぜ、ファンケルをキリンに売却したのか~「今年で82歳、私が死んだら社員は困る」(前)

 創業者が晩年、最も頭を悩ますのは事業承継問題である。事業を誰に引き継がせたらよいか。化粧品、サプリメントメーカーのファンケルの創業者、池森賢二会長は、事業継承や後継者問題に結論を出した。キリンホールディングス(HD)の出資を受け入れる。大手資本の傘下に入ることを決断したのである。

創業家の保有株を1,293億円でキリンに売却

 「私は今年で82歳。私がしっかり判断できるうちに社員にとって最良の道筋を付けるのが責任だと思うようになった」

 ファンケルの創業者である池森賢二会長は8月6日、東京都内で行われた記者会見で、キリンHDから出資を受け入れる理由をこう語った。以前から好印象をもっていたキリンに「単なる業務提携よりも株をもってほしい」ともちかけたという。

 キリンは、ファンケルの筆頭株主である池森会長と親族、池森氏の資産管理会社などから議決権ベースで33%の株式を取得する。株式の取得予定日は9月6日で、取得総額は1,293億円になる。

 ファンケルの2019年3月期の連結売上高は、前年同期比12.4%増の1,224億円、営業利益は46.6%増の123億円、純利益は39.7%増の86億円と絶好調だ。主力のファンケル化粧品は基礎化粧品が堅調で、訪日客需要の高まりが追い風になり、サプリメントの売上を押し上げた。00年3月期以来19期ぶりの最高益だ。

 業績好調のこのタイミングで、キリンHDに身売りする理由について、池森会長は、「私が死んだら社員は困る。インバウンド需要もあり、足元は業績が良いが、消費行動は大きく変化しており、現代社会のこの変化に合わせていかなければ企業は存続できない。社員のことを考えると、成長余地を残したこの時期しかなかった」と語る。

 「私が死んだら社員は困る」。この一言に凝縮されている。池森氏が長年、抱いていた「不安」が背中を押したということだ。多くの創業経営者に共通する事業継承や後継者の問題である。池森氏が、キリンに会社の将来を託すに至るまでの道程を振り返ってみよう。

湿疹に悩む妻をみて、無添加の化粧品を思い立つ

 池森賢二氏は、化粧品業界の立志伝中の人物である。

 1937年6月1日、三重県伊勢市生まれ。産能短期大学中退。59年4月、小田原瓦斯に入社。73年に同社を退社し、仲間数人とコンビニの経営を始めるが失敗。そのとき抱えた負債を2年半で完済する。

 池森氏は、PHPマネジメント『衆知』で「私の苦闘時代」(19年6月4日公開)を語っている。以下にそれを要約する

 「私の家内の顔に湿疹ができ、この原因が化粧品であることがわかった」ことから、化粧品による皮膚トラブルに着目した。知人の化粧品技術者と共同で、防腐剤・殺菌剤や香料を使わない無添加化粧品の製造に着手する。

 化粧品公害を訴えるため、東京都北区田端で1日100件の飛び込み説教を始めた。9,000件を回り、無添加化粧品は間違っていなかったと確信。女性が大きな反応を示してくれた内容をまとめて『素肌ニュース』として1枚のチラシにした。

 そして、1980年4月7日、横浜市緑区の竹山団地に最初のチラシをまいた。簡易印刷で1枚2円のチラシを2万枚印刷してもらい、その都度4万円を現金で支払った。

 「事業に失敗して借金の返済に苦労した私は、新しい事業では無借金経営を生涯続けることを天に誓った」

 1年後の81年8月、化粧品の通信販売会社ジャパンファインケミカル販売(株)(現・(株)ファンケル)を設立、池森氏は代表取締役社長に就いた。ファインケミカルは「混じりけのない化学品」の意味。縮めてファンケルを社名にした。

 82年5月、5ミリリットル入りの使い切りミニボトル(通称・バイアス瓶)に詰めて、世界初の無添加基礎化粧品および「洗顔パウダー」の販売を開始した。悲願としてきた無添加化粧品会社の誕生である。

 94年にサプリメント事業を始めた。「日本では健康食品という言葉はマイナーなイメージがあまりに強いので、アメリカで使われていたサプリメントという言葉を使い、イメージアップを図った。」

 無添加化粧品というニュービジネスが評価され、98年11月、株式を店頭公開。99年12月東証一部に上場した。

(つづく)
【森村 和男】

(後)

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