2022年08月13日( 土 )
by データ・マックス

創業者、池森賢二会長は、なぜ、ファンケルをキリンに売却したのか~「今年で82歳、私が死んだら社員は困る」(後)

「65歳」引退を宣言して一度は経営を去る

 池森氏は社長時代に「退き際は65歳だ」と公言した。年を取ると退き際がわからなくなり、自分を見失うと考えたためだ。定年制をしいて、65歳だった2003年に社長退任を発表したが、その後の経営体制を見ると、後継者づくりがうまくいかなかったようだ。

 社長が目まぐるしく交代した。03年6月、ダイエー出身でローソン社長を務めた藤原謙次氏が就任。池森氏は会長になり、05年6月には名誉会長となり、経営の第一線から退いた。

 だが、完全に引退したわけではなかった。自分が創業した会社を、身内に継がせたいという思いを断ち切れなかった。07年3月、池森氏の義弟でダイエー出身の宮島和美氏が社長に就いた。

 宮島氏は成城大学卒業後、ダイエーに入社。ダイエー創業者の中内功氏の秘書を長く務めた。常務執行役員秘書室長を経て、2001年に義兄の池森氏の招きで、ファンケルに入社。池森氏の後継者として社長に就いたものの、1年後の08年6月に蛇の目ミシン工業出身の成松義文氏が社長になり、宮島氏は会長に退いた。

 ファンケルの業績は悪化していく。13年4月、池森氏が会長執行役員として経営に復帰、身内の宮島氏を再び社長に戻した。

経営に復帰したワケ

 池森氏は、復帰した理由を前出の『衆知』で、こう語っている。

 「ファンケルは代表的なSPA(製造小売業)と言われています。すべて自社で行いたいというのが、私の創業からの理念でした。ところが、私が経営に復帰する前の10年で、他社への依存体質がすっかり進んでいました。

 ファンケル銀座スクエア(美と健康をサポートする10階建ての旗艦店)。大金を丸投げのような状況で大型改装が計画されました。情報システム部門も外部への全面依存で、同規模の同業他社と比べて高額なシステム費用を支払っていました。

 広告も各広告代理店に一斉にテーマを与え、提案された作品のなかから良いと思われる作品を採用するということから、一貫性のない広告が、これまた他社依存の体質のなかでつくられていました。

 このため、私が経営に復帰してすぐに、改革案を十数目提示しましたが、そのうちの重要項目として『他社依存からの脱却』を掲げました」。

 池森氏は復帰当時に「3年で経営を立て直す」と宣言。ドラッグストアなどを中心に店舗の売り場拡大や、積極的な広告を展開。訪日客が日本産のサプリメントや化粧品を買い求めるインバウンド需要もあり、業績はV字回復した。

 17年4月、ダイエー出身の島田和幸氏を社長に据え、宮島氏は副会長に棚上げ。池森氏は、『衆知』で、島田氏についてこう評価した。

 「このこと(他社への依存体質の脱却)が最も重要であることを自覚して、島田社長が中心となって全役員、全社員が努力した結果、ようやく他社依存体質から脱し、全部門で期待した成果が出るようになってきました。これがいまの好業績につながってきたのです」。

同族経営を続けるかで胸中は揺れる

 社長退任後の池森氏の足跡をたどると、事業承継や後継者問題で揺れ動いたことがわかる。第三者に経営を委ねたが、同族経営を捨てることはできなかった。長男は画家になっているので、後継者になりえない。義弟の宮島氏を後継者に据えることにしたものの、お眼鏡に叶わなかったようだ。社長に就けたり、外したり、また戻したりを繰り返した。

 池森氏は記者会見で、キリンへの売却を決断した理由をこう語った、と日本経済新聞(19年8月12日付朝刊)が報じた。

 〈「私が引退していた10年間、業績が衰退し社員に大きな不安を与えてしまった。」「ファンケルの将来を託せる信頼できる会社に譲った方がよいとの結論になった」〉

 これは、宮島氏を後継者にすることを断念したということだ。宮島氏はダイエー時代、そしてファンケルに移ってからも社長室長を務め、カリスマ創業者を支えてきた。あくまで創業者のブレーンの役割だ。全軍を率いるトップとして物足りなさを感じていたのかもしれない。義弟が経営を継いだら、10年前に戻ることを恐れたようだ。池森氏の言葉を借りれば、「私が死んだら社員が困る」。最終的に同族経営を断念した。

 百戦錬磨の経営者として、業績が絶好調の今が、売り時と判断したことはいうまでない。経営を放棄する代わりに、一族は莫大なキャッシュを手にした。

 池森氏の決断は、多くの創業経営者に、引き際をどうするかについての示唆を与えている。

(了)
【森村 和男】

(前)

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