• このエントリーをはてなブックマークに追加
2019年10月27日 07:00

珠海からの中国リポート(8)

福岡大学名誉教授 大嶋 仁 氏

暗唱教育

 中山大学は南中国一番の名門校。この大学に進学できず、日本の大学への留学を決めたM君はこう言った。「中国のエリートは暗記の天才です。僕みたいに暗記が不得意な人間は、到底上に上がれない。小学校に上がる前に『論語』を丸暗記させられたけど、中身がさっぱりわからないから、何1つ覚えていない」

 韓国からやってきたK先生はこれを「科挙制度の名残」と一刀両断し、科挙制度は国家権力に従順な官吏養成に最適だったと説明してくれる。しかし、上記のM君はそれでは納得しない。「暗記しても内容がわからなければ、従順ではなくて、無能な官吏しか育たないでしょ」とそっけないのである。暗記万能主義によほどの恨みがあるようだ。

 暗記主義というと、福沢諭吉を思い出す。『学問のすゝめ』に、戦国の武将今川義元の軍勢と、普仏戦争において敗戦したフランス軍の戦いぶりとの比較があった。諭吉がいうには、仏軍兵士は自国の君主が幽閉されても戦い続けたが、今川の軍勢は主君が殺されるや否や退散したという。そこに諭吉は、集団意識から抜け出せず、個の意識をもたない日本人の姿を見た。

 そういう諭吉は、江戸時代の古典暗唱主義に批判的だった。「読書百遍、意自ずから通ず」に真っ向から反対し、一回でもしっかり理解しながら読むことが大切で、そうでないと「知識」は力にならないと主張した。上記の中国人のM君、もしかすると現代中国の諭吉になりたいのかもしれない。

 M君の話はさらに続いた。「いまの中国の若者は何も信じていません。中国のメディアが本当のことを伝えていないことがわかっているので、何も信じられないんです。暗記ばかりして心のなかは空っぽ。外からの情報が信じられないというのなら、もうどこへも行けませんね」

 そこで私は聞いてみた。「日本の若者だって、何も信じていないようじゃないか。世界的にそういう傾向があるんじゃないのかな」

 M君は首を横に振った。「中国の若者は自分たちと外の世界の間には高い壁があって、乗り越えられないとわかってるんです。日本に、そういう壁はありますか?」

 私はとっさに答えかねた。が、10年以上前に福岡で出会ったある大学生のことを思い出した。その学生は、今にして思えば優れた感性の持ち主だったが、こんなことを言っていた。

 「日本には世界中の情報が入ってくるように思えるんですけど、そうした情報は一種のオブラートに包まれていて、本物じゃないなって感じるんです。じゃあ、本物はどこにあるのかと思って手を伸ばそうとしても、いつも目に見えない透明なビニールの膜にぶつかって、そこから先へ進めない。そこから先へ進んじゃったら、酸素もなくなって死んでしまうんじゃないかという恐怖もあるんです。そういうわけで、僕はいつも立ち止まってしまう」

 ひところ前だが、「空気を読む・読めない」という表現が流行した。「空気」とは場の雰囲気ということで、場の力、場の拘束力が絶対視される考え方である。ところが、場というものは、物理的にも、心理的にも、その場に存在する事物や人間によって形成されるもので、あらかじめ出来上がっているものではない。

 しかし、この理屈がわかっていない人が多いため、「空気」を持ち出してこれを支配の道具とする人々が出てくるのである。私が福岡で出会った大学生は、そうした周囲の支配力を敏感に察知して、そこからどうしても逃げられないと感じていたのかもしれない。

 中国の若者が暗唱主義に毒されて思考力を失っているとするなら、日本の若者は何に毒されて思考力を失っているのか。いや、実は思考力を豊富に蓄えているのかもしれないが、暗唱主義にかわる別の知識習得手段を身に着けていない以上、「空気」の力に従順になるしかないのか。

 韓国人のK先生にまた会った。先生は植民地時代の朝鮮文学の専門家。彼によると、戦中の日本文学が極度に暗かったのに対し、植民地朝鮮の文学は生命力に満ちていたという。

 これを聞いて直観的に思ったものだ。ひょっとすると、朝鮮半島はとてつもない生命エネルギーの磁場であって、それが中国東北部や日本列島に与えている影響は、思いのほかに大きいのではないかと。空気を読むとか読まないとか、そうした理屈が通用しない場こそ、場のエネルギーは高いにちがいない。日本人はもっとこの半島のことを知るべきで、アメリカや中国といった大国ばかりを見ていてはいけないのではないか、とふと思った。

(つづく)

<プロフィール>
大嶋 仁 (おおしま・ひとし)

 1948年鎌倉市生まれ。日本の比較文学者、福岡大学名誉教授。 75年東京大学文学部倫理学科卒業。80年同大学院比較文学比較文化博士課程単位取得満期退学。静岡大学講師、バルセロナ、リマ、ブエノスアイレス、パリの教壇に立った後、95年福岡大学人文学部教授に就任、2016年に退職し、名誉教授に。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

     

トップニュース

2019年11月19日 16:50

誰もが「自分の未病の医者」になれる 未病メソッドを提唱し、未病産業を振興(1)NEW!

 未病の考え方を普及し、未病総研メソッドを提案する団体として、(一社)日本未病総合研究所=未病総研(代表理事:福生吉裕)が今年1月に発足した。(一社)日本医学会連合の...

美談の裏で─ライオンズクラブ337-A地区と朝倉災害支援─(2)NEW!

 なぜ、朝倉市は地域住民からの要望があったにもかかわらず、同校体育館の改修工事を発注できず、LC337-A地区から「寄贈」を受けたのかを時系列で明らかにしていく。

2019年11月19日 14:09

【(株)万惣】低価格武器に九州進出 宇美町に11月5号店NEW!

 広島県を本拠とする万惣は11月末、福岡県宇美町に九州5号店を出す。昨年11月、飯塚市に1号店を開設してからわずか1年。本拠地で出店余地が少なくなったことから持ち前の...

2019年11月19日 13:47

中小企業では経営者と労働者は共通の目的を達成するパートナー!(前)NEW!

 今、大企業を中核とする現代の市場社会が、経済的停滞に陥ると同時に、人々の共同性・連帯性や労働の尊厳を破壊している現実がある。では、人々を封建的抑圧から解放した市場経...

2019年11月19日 11:42

【凡学一生のやさしい法律学】憲法改正について(6)

   憲法の条文上では、「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。」(第81条)とあるため、日本...

2019年11月19日 11:32

伊都国フードフェスティバルが糸島を盛り上げる!

 第9回目となる伊都国フードフェスティバルが、糸島市多久で11月16日(土)開催された。今回は初となるやますえ会場と五洋食品会場の2会場で開催され、両会場ともに、朝か...

2019年11月19日 10:52

JR九州、ハイエナファンドの餌食になる!~ファンドの圧力に屈して、100億円の自社株買い(前)

 JR九州は11月5日、発行済み株式の2%に当たる320万株、取得額100億円を上限に、自社株を取得すると発表した。

2019年11月19日 10:46

「第11回ひのまるキッズ 九州小学生柔道大会」を開催 スポンサー募集中

 (一社)スポーツひのまるキッズ協会(永瀬義規理事長)は2020年1月19日(日)、福岡県春日市の春日市総合スポーツセンターで、「第11回スポーツひのまるキッズ 九州...

2019年11月19日 10:13

続々・鹿児島の歴史(1)~古墳について~

 今回は大隅国(種子島・屋久島等の熊毛地域を含む)や新たに追加したい事柄等を中心に述べます...

2019年11月19日 09:42

名門ゴルフクラブの株主権確認訴訟~法務過誤

 国民は本件事件で、現在の司法サービスがまったく国民には無益有害となっている実態を学ぶことになった。第一審判決は勝訴した長男に遺産の全額の帰属を認めたが、それは長男に...

pagetop