2024年04月29日( 月 )

日本版「#MeToo」裁判~女性蔑視・男尊女卑の日本社会(10)

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 本件事件の1つの本質が、法律の素人である市民審査員が「性行為の合意」を事実認定したことを意味する「不起訴相当の議決」だった。

 しかも、この議決はすべて公然と秘密のベールに包まれた、近代民主主義国家の刑事司法手続きとしては明らかに適正手続条項(憲法31条。デュープロセスオブロー)違反であるにもかかわらず、日本のマスコミ・知識人などから一切の批判や異義が起こらないという、日本の文明基準の低さを象徴するものであった。

 以上を検察暴走の一方の車輪とするなら、もう一方の車輪が公訴権の絶対性を背景にした検察による公訴権の独占である。

公訴権の絶対性

 隣国・韓国は日本の報道によれば、日本より民主主義の成熟度が低い。その国において常に重大な政争問題となるのが検察改革である。一方、絶えず重大な冤罪を生み出している日本の刑事司法において、その主役である検察について、検察改革とまで主張する識者政治家はほとんどいない。

 隣国で絶えず検察改革が政争の主題となる「真の理由」は不思議なことに、日本では本音と建て前という二重基準の思考方法で正式には存在しないものとして闇に葬られている。

日本でまともに議論されない「真の理由」、それを「公訴権の絶対性」として以下に分析検討する。

 日本に限らず、社会的地位や財産を一瞬にして奪うものが、刑事被告人として公訴を提起されることである。「疑わしきは被告人の利益に」「有罪判決が出るまでは無罪の推定」という法格言はすべて実態・真実とは無縁の「政治的美称」であり、真実を隠蔽する。この公訴提起が被告人にもたらす絶対的な負の効果、これが公訴権の絶対性である。

 無実の罪で公訴を提起され、築き上げた社会的信用を一瞬にして奪われ、収入の道を閉ざされた例は数えきれない。公訴提起は即時の社会的抹殺行為であり、社会的殺人行為である。仮に刑事裁判で無罪を獲得しても失われたものが戻って来ることはほとんどない。この公訴権の絶対性の存在が、隣国で絶えず重大な政争の主題となっている。

 日本ではなぜ、この公訴権の絶対性が議論されないのであろうか。たまたま、日本の冤罪の歴史上、社会的地位の高い人が検察の餌食となった例がなかったが、昨年、世界的企業経営者のゴーン氏がこの公訴権の絶対性の被害者となった。ゴーン氏が仮に裁判で無罪を勝ち得たとしても、すでに失ったものの、大部分は戻ってくることはない。

 また、最年少首長として有名だった美濃加茂市長も公訴権の絶対性の犠牲者となった。

 国家権力の公訴権の行使は以上のような絶対的負の効果をともなうため、検察に独占させることにはまったく合理性がない。とくに、検察による不起訴処分に検察審査会を隠れ蓑にして事実上の対世効的不可争力を認めることは、必要以上に検察の公訴権独占の威力を増大させるだけで百害あって一利もない。検察が公訴権を適正に行使するためにも、検察に不起訴処分の権能を認めるべきではない。本来的に無罪であれば、正式な裁判手続で無罪となるのであるから、検察官が裁判官に成り代わって無罪の判断をする必要はない。

 不当な告訴・告発者には虚偽告訴罪の責任追及が可能であり、検察が出る幕でない。

公訴権の絶対性の解消ないし弱体化への工夫

 人間がつくり出した刑事司法手続きであるから、その負の効果発生も、人間による工夫で解消・解決できる。それが積み上げられた社会経験である。一番簡単な解消法は、公訴権の検察への独占を止め、公訴提起を市民の中立的事実認定を先行させる制度にすればよい。検察審査会前置主義である。検察は検察審査会が起訴相当と議決したもののみ、公訴提起できるとすれば、冤罪も含め、一切の不当な公訴提起は存在しなくなる。これは陪審制による犯罪構成要件事実の事実認定を行うことと時間的な前後関係が違うだけで本質は同じである。

 西洋の刑事司法手続きで陪審制が採用されている本当の理由を今一度、日本の法律家・政治家は勉強しなおす必要がある。

 なお、犯罪捜査権は強制捜査権が不可避であるから、従来通り、検察を含め、司法警察員が捜査担当者とすることになる。この公訴権の検察審査会前置主義は同時に捜査機関の違法捜査の抑制機能も有することは明らかで、一石二鳥の制度となる。この制度は市民が主役の刑事司法制度であるから、刑事司法の専門家を自負する警察官僚・検察官僚からの強い反対を受けるだろうが、「法律の専門家」というのが、実に中身のない権威主義的なものであることは、現在までの歴史が証明していることである。

(つづく)
【凡学 一生】

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