2024年04月29日( 月 )

日本版「#MeToo」裁判~女性蔑視・男尊女卑の日本社会(11)

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またも出現「裸の王様」弁護士

 国民は誰もが、民事裁判で性暴行が認定され、刑事手続きで性暴行が認定されなかったことを同じ人間の事実認定行動としては矛盾だと考えている。紛れもなく矛盾である。しかしこの矛盾を矛盾でないと言い張る弁護士が先の元特捜部長の論文であった。

 いわく、民事裁判と刑事裁判とでは要求される事実証明の程度が異なるから同じ事実であっても、民事と刑事では判断が異なることはあり得る、と。そんな中、再び、「推理作家弁護士」が、裁判における真実は普通にいう科学的真実と異なり、訴訟法的真実であって「真実は1つ」という命題は成立しない世界である、として、これまた、今回の2つの判断が矛盾しないと論説した。本当に懲りない面々である。

 以下に、再び、弁護士が裸の王様であることを論証するが、先に断っておかなければならないのは、齟齬・矛盾が生じているのは刑事裁判の判決と民事裁判の判決の判決同士の矛盾齟齬ではなく、検察官の不起訴処分(今回は検察審査会の議決も含む)と民事裁判の判決との間の矛盾・齟齬であり、民事裁判の判決については詳細な判決理由が提示されているが、検察官の不起訴処分と検察審査会の議決にはまったく客観的にその思惟過程を検証する客観的な資料が存在しないことである。

 このような場合には、民事判決の正当性だけで、不起訴処分と検察審査会議決の不当性が証明される関係にあることを理解しなければならない。

 世間の人はどういうわけか弁護士を全知全能のスーパーマンのように尊敬している。だから彼らが、認識科学の素養がまったくないなど夢にも思わない。世間がそうなので、彼らは自分の展開する感覚的・情緒的論理に絶大の自信をもって、堂々と謬論を主張する。

 日本の法律学は本格的には明治維新後に輸入されたものであり、横のものを縦にするだけで精一杯で、法論理、とくに実践と融合した整合的な論理を構築する力量など無かった。

 法律学の体系といわれる学問的体系の構築も実体法と手続法という区分概念が存在するように、日本の法律学は実定法の解釈学を中心として発展してきた。この実定法解釈学は当然であるが、実務で争われる要件事実の認定問題についてはまったく無力であった。

 なぜなら、実定法の解釈学は要件事実の存在は当然の前提条件であって、研究・議論の対象ではなかったからである。しかし、いくら実定法の解釈学を精緻に体系的に整合性があるものを構築しても実際の裁判の場において、原告被告の紛争を解決する要素は立証責任の負担の有無であった。「立証責任のあるところに敗訴あり」という裁判上の格言がそれを示している。

 そこで、実定法学者は裁判実践上の決定的要素である「立証責任」の問題に取り組まざるを得なかった。法的安定を謳った解釈学であるから、当然、条文の解釈上、立証責任の分配も解釈学で解決しなければならないと考え、事実、立証責任は条文の文言の体裁で決定されていると主張する学説も出現し、条文上から立証責任の分配を決定する努力がなされた。

(つづく)
【凡学 一生】

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