2024年03月29日( 金 )

三菱重工は創業地の主力造船所を売却~日本製鉄から発祥の八幡製鉄所の名前が消える(前)

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 三菱重工業は、創業地である長崎市内にもつ2つの造船所のうち、主力の香焼工場(長崎市)を大島造船所(長崎県西海市)へ売却する。造船を祖業とする三菱重工にとって長崎造船所は特別の存在で、いわば”聖地”である。また、日本製鉄からは八幡製鉄所の名前が消える。八幡製鉄所は、日本製鉄の原点だ。期せずして、日本の重厚長大企業の2社から、創業地をめぐる動きがあった。長崎造船所と八幡製鉄所の創業を振り返ってみよう。ともに前身は官営企業であった。

西南戦争で財を成した政商・岩崎弥太郎

 三菱の創始者、岩崎弥太郎は典型的な政商である。三菱商会として海運業に進出していく。最大の官需は1877(明治10)年2月から始まった西南戦争。政府の社船徴用命令を受けた三菱はただちに、これに応じた。6万人を超す大兵力と、そのための軍需品を三菱が迅速に運んだことが、政府軍勝利の大きな原因となり、三菱は西南戦争で莫大な利益を得た。

 弥太郎は海運業で得た利益をもとにさまざまな事業に進出したが、最も重要なものは高島炭鉱と長崎造船所で、三菱が後に財閥を形成する母体となった。

 高島炭鉱は江戸時代から佐賀藩が採炭を行っていた。明治政府が高島炭鉱を官収し、これを後藤象二郎に払い下げた。しかし、後藤には払い下げ代金を支払うカネがない。弥太郎にとって後藤は土佐藩の上司であり、弟の弥之助の妻は後藤の娘だ。1881(明治14)年3月、後藤の負債を肩代わりした弥太郎は高島炭鉱を買収。高島炭鉱は三菱のドル箱となった。

長崎造船所の前身は、徳川幕府の軍艦の修理工場

 次に弥太郎が入手したのが長崎造船所である。

 徳川幕府は1857(安政4)年、オランダから購入した軍艦の修理場として長崎鎔鉄所をつくった。これは後に長崎飽浦製鉄所と改称。明治維新で、旧幕営の工場を明治新政府が官収。長崎飽浦製鉄所は工部省所管となって官営の長崎造船局となった。長崎造船局はドックをもっていなかったが、1879(明治12)年、立神造船所が完成した。

 明治政府が公布した「工場払下概則」に基づき、工部省は長崎造船局の民間への払い下げを決定。1884(明治17)年、弥太郎が貸し下げ先と指定された。弥太郎は長崎造船局を借り受け、長崎造船所と命名して造船事業を本格的に開始。三菱重工業は、この年を創業年としている。

 85年2月、弥太郎は50歳の若さで死去。あとを継いだ弥之助が、長崎造船所の設備の払い下げを願い出、87年6月に認可された。払い下げ後、三菱は東京工業学校や工部大学校卒の技術者を採用して、造船工場を拡大。民間造船工場中トップの地位を築き、三菱のもう一方のドル箱として財閥形成に大きく寄与した。

香焼工場は”造船王国ニッポン”のトップランナー

 戦後、財閥解体で、三菱重工は3社に分割。1964(昭和39)年、3社が合併して三菱重工業長崎造船所となる。

 売却する香焼工場は1972(昭和47)年、本工場(長崎市)の近隣に開設した。1200tの超大型クレーンを1本、600tのクレーン2本をもち、ドックの長さは1kmと国内最大級の規模を誇る。長崎造船所は、”造船王国ニッポン”のトップランナーであった。

 造船業は中国や韓国勢の安値攻勢で、日本の造船会社は赤字に苦しむ。1970年代の黄金時代には長崎県での船舶建造数は170隻を超えていたが、近年では60~70隻に落ち込んだ。香焼工場は、付加価値の高いLNG(液化天然ガス)など大型資源船に特化してきたが、LNG船は19年9月を最後に生産が途絶えた。

 長崎は三菱重工にとって造船所を始めた由緒ある場所だ。香焼工場を含めて聖域視されてきたが、事業の赤字が続くなか、主力造船所を売却。LNGなど大型運搬船の建造から撤退する。約600人の従業員は 転籍や配置転換で対応する。

 香焼工場の売却後は防衛省向けの護衛艦が中心の本工場と、フェリー建造の下関造船所(山口県下関市)の2工場に縮小する。

世界遺産登録「ジャイアント・カンチレバークレーン」

 三菱重工は早晩、造船から撤退し、ICT(情報通信技術)や航空機関連など新産業に主力を移すとの観測が強まるなか、皮肉にも、歴史的価値にスポットが浴びるようになった。

 技術の粋を集めてつくられた戦艦「武蔵」が、撃沈されたフィリピン沖の深海で見つかり、「武蔵のふるさと」として注目を集めたのである。戦艦武蔵は1942(昭和17)年、長崎造船所(現・本工場)で竣工した。

 2015年、世界遺産に「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」が登録された。登録された長崎造船所のなかで、ひときわ存在感を放つのは「ジャイアント・カンチレバークレーン」。日本初の電動クレーンだ。

 スコットランド製で1909(明治42)年に長崎造船所が輸入。高さ62m、アーム部分の長さ75mの巨大クレーンは、造船所内の機械工場でつくった蒸気タービンや船舶用大型プロペラといった製品を吊り上げ、出荷用の船に積み込む。100年以上たってもクレーンのモーターのうなる音を湾内に響かせている。

 廃坑となった高島炭鉱(現・長崎市高島)と端島炭鉱(通称・軍艦島)も、世界遺産に登録されたが、世界登録遺産を審査する専門家の間では、有名な軍艦島より、ジャイアント・カンチレバ―クレーンの話題が高かったそうだ。

(つづく)
【森村 和男】

(後)

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