2024年04月19日( 金 )

「尖閣諸島をめぐる日中対立の真相と今後の打開への道」(2)

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国際政治経済学者 浜田 和幸

 日本政府は国有化宣言以降、インターネット上の動画などを通じ、日本人が古くより魚釣島で生活し、開発にも従事し、村の生活に欠かせない施設を建設したことを宣伝している。要は、魚釣島が日本固有の領土であることを歴史的に証明しようとしているわけだ。2018年には東京都内虎ノ門に「領土・主権展示館」を開設し、尖閣諸島に限らず、北方領土や竹島の主権を裏付ける活動を展開するようになった。

 しかし、清華大学国際関係研究院の劉江永教授によれば、これらの写真や画像はいずれも日本国が日清戦争を利用し、魚釣島を奪い取り、台湾を植民地支配していたときの植民開拓行為と同じものであるため、日本が魚釣島を歴史的に専有していたとする国際法の観点からの根拠はないとの反論につながっている。

 ここで注目すべき点は、古賀辰四郎氏が1884年に魚釣島に上陸し、その後、開発の申請を提出したことを証明する書類が存在しないという点であろう。下関市立大学の平岡昭利教授も古賀辰四郎氏が1884年に他に先駆けて魚釣島を開拓したという事実は存在しないと主張している。その根拠として平岡教授が指摘しているのは、1978年に魚釣島に建立された古賀辰四郎翁顕彰碑と1998年に石垣市や八島町緑地公園内に建立された記念碑を比較検証した結果、その内容がウソである疑いが濃厚であるとしている点にある。

 具体的にいえば、古賀氏が1909年に明治政府から藍綬褒章を授与されたときの履歴書が事実と異なる内容となっている点が1つ。すなわち、藍綬褒章を受賞したときの古賀氏の履歴書には「明治17年、尖閣諸島に人を派遣し、海産物採取を為さしめたり」と書かれている。この明治17年といえば1884年である。問題は古賀氏が提出した官有地拝借御願の文書のなかでは、尖閣諸島への探検は1885年(明治18年)と記載している点だ。

 また、「尖閣諸島に上陸致し候」と書かれているのだが、1909年に提出された履歴書には「人を派遣し」となっている。要は、古賀氏が自ら尖閣諸島に上陸したのか、単に人を派遣し続けたのか、極めて曖昧なままなのであった。

 しかし、さらに問題なのは1884年(明治17年)に古賀氏が実施した探検には「大阪商船の栄康丸を使用した」とされているが、この時点では栄康丸は存在していなかったのである。栄康丸は1896年(明治29年)11月に建造された390tの貨客船で、1905年には朝鮮沖で沈没している。しかも、栄康丸だけではなく、大阪商船という会社もこの探検時には存在していなかったのである。なぜなら大阪商船は1884年5月に誕生した会社であり、探検が行われたという同年3月にはまだ発足していないからである。

 その他、古賀氏が提出した官有地拝借御願の文書や、藍綬褒章受賞時に提出された履歴書などにはさまざまな矛盾あるいは明らかに捏造されたと思われる記述に満ちている。このような文書を日本政府が尖閣諸島の領有権を正当化するために援用しているとすれば、明らかにその主張には欠陥があると言わざるを得ない。

 こうした点を中国の研究者が次々と明らかにするという状況が続けば、日本政府が「歴史的にも固有の領土」とする主張が根底から覆されることにもなりかねない。何としても客観的な歴史事実を積み重ね、国際社会からも信頼を勝ち取ることのできるような説得力のある証拠の積み重ねと情報の開示が欠かせないと思われる。その点で、中国側の研究者による新たな歴史資料の発掘に対する執拗な動きは過小評価できない。

(つづく)

<プロフィール>
浜田 和幸(はまだ・かずゆき)

 国際未来科学研究所主宰。国際政治経済学者。東京外国語大学中国科卒。米ジョージ・ワシントン大学政治学博士。新日本製鐵、米戦略国際問題研究所、米議会調査局などを経て、現職。2010年7月、参議院議員選挙・鳥取選挙区で初当選をはたした。11年6月、自民党を離党し無所属で総務大臣政務官に就任し、震災復興に尽力。外務大臣政務官、東日本大震災復興対策本部員も務めた。最新刊は19年10月に出版された『未来の大国:2030年、世界地図が塗り替わる』(祥伝社新書)。2100年までの未来年表も組み込まれており、大きな話題となっている。

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