2024年05月09日( 木 )

コロナ禍のいま、多くの市民が「哲学」に飢えている(3)

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玉川大学 文学部 名誉教授 岡本 裕一朗 氏

 新型コロナウイルスの感染拡大は止まるところを知らない。世界の感染者は6,500万人、死亡者は150万人を超えた(ジョンズホプキンズ大学12.4集計)。ワクチンや有効な治療薬の開発が遅々として進まないなか、冬場に向かって第3波の到来も予測されている。
 こうしたコロナ禍を誰もが「健康危機」と「経済危機」の視点からとらえているが、経済危機を乗り切る抜本的対策について、政治家も経済人も、まったくシナリオを描けないでいる。そんななか、岡本裕一朗・玉川大学文学部名誉教授の近刊『世界を知るための哲学的思考実験』や『答えのない世界に立ち向かう哲学講座』が注目を集めている。

「資本主義」は格差が前提

 ――「格差社会」についてはいかがでしょうか。 

岡本 裕一朗 氏
岡本 裕一朗 氏

 岡本 1970年代、戦後の高度経済成長の結果、幅広い中間層が形成されて、国民には「一億総中流」意識が浸透しました。ところが21世紀になるころには「格差社会」が時代のキーワードになりました。この傾向はとどまるどころか一層激しくなっています。一般的に言って、格差に関する議論は取り扱いが難しいと言われています。社会における格差拡大を指摘したり批判したりするのは、しばしば好意的に受け止められますが、現実にどう対処すべきかを論じ始めると雲行きが怪しくなります。 

 もともと資本主義は「格差」を前提に成立しています。しかし、そうかと言って大きな格差が生まれてそれを放置すれば多くの人々の生活が成り立たなくなり、社会不安も起こります。どこかである程度の歯止めが必要になりますが、その際の考え方は「格差社会」を失くすために動くのではなく「格差社会」(資本主義)を維持するために動くのです。すなわち、あくまでも行き過ぎた格差をなくし、格差社会を存続させるための行動です。共産主義や社会主義という言葉も身近にありましたが、ソ連邦の崩壊以来、もちろんいろいろと模索はされていますが、資本主義に代わるモデル(マルクス以外のモデル)を私たちはいまだ見つけることができていません。 

 アメリカの生態学者ギャレット・ハーディンは「救命ボートの倫理/貧者救済に反対する理由」というショッキングな論文を発表しています。 

【思考実験】救命ボートの倫理
 私たち50人は今、救命ボートに乗っている。全体の収容能力が60人なので、あと10人は収容できるが、そうすれば「安全因子(safety factor)」を失うことになる。さて私たち50人は、海を泳いでいる100人の人々が「ボートに乗せてくれ、そうでなければ何かくれ」と叫んでいるのを見ている。さて、この状況で私たちはどうすべきだろうか。 

「フェイク」ニュースはギリシャ、ローマの時代も

 ――フェイク(虚偽)ニュースなどが氾濫し、アメリカ大統領選にも影響をおよぼすようになっています。 

 岡本 2016年のアメリカ大統領選挙のころから、トランプ氏(反知性主義)を象徴として、「ポスト真実(Post-Truth)」という言葉が流行語のように使われ、今ではすっかり定着しました。「ポスト真実」の時代となって、巷には「フェイク・ニュース(Fake-News)が氾濫しています。さらに、デジタルテクノロジーが進み、ありもしない映像も容易に作成が可能になりました。単純に考えると「メディア・リテラシー」を身につけ、メディアで流通している情報を「ファクト・チェック」してフェイクとリアルを区別すればいい、といえそうですが、そう簡単にはいきません。私たちは「ポスト真実」の時代にどう行動すればいいのでしょうか。 

 この点に関してもっとも大きな問題は、あまりにも明々白々な事柄を除けば、「何がフェイクであるかが厳密にはわからない」ということです。すなわち、誰かがある事柄をフェイクと言った場合、それをたしかめるすべをほとんどの人は持ち合わせていません。現在の日本の報道を見ていても、どこまで信用を置くことができるのか、というものが山ほどあります。世界でも、日本でも、「フェイク性」や「信憑性」の判断は、一般市民には手の届かない社会になっています。そのうえでお互いに相手を非難し、罵りあっているのです。 

 しかしよく考えると、私たちが何かを理解するときに、自分に理解できる自分に心地よい情報だけを受け入れてしまうのは、普段からやっていることだと思います。遡ればギリシャ、ローマの時代から続いています。大きな違いは、当時は噂話程度で拡がることがなかった点です。現代社会ではデジタルテクノロジーの発展によって、SNSなどを通じて世界中に直ちに拡散されていきます。そこでは、エコーチェンバー現象も起こっています。 

 哲学用語で、プラトンがイデアによる知識であるエピステーメーに対し、根拠のない主観的信念をさして呼んだ語「ドクサ」(臆見、思いなし)という言葉があります。このドクサを壊して、「ソフィア」(真実を悟り、物の本性を真に理解する知恵、英知)に導くのが哲学の重要な営みだったのです。しかし、これが難しいことは歴史が物語っています。 

【思考実験】デモの人数はどうやってたしかめることができるか?
 政府が国民の自由を奪うために、人々の日々の活動や通信などを監視できるような法案を策定した。それに対抗するため、多くの人が連日のようにデモに参加し、法律の制定に反対した。その報道がテレビや新聞やインターネットで伝えられると、ますますデモの規模が大きくなっていった。そして、デモの参加者数が主催者側と規制する警察側から発表された。それによると、国会を取り囲んでデモに参加した人は、主催者側発表で20万人だった。ところが警察発表では、たったの1万5,000人だった。このとき、どう判断したらよいのだろうか。 

(つづく) 

【金木 亮憲】 


<PROFILE> 
岡本 裕一朗
(おかもと・ゆういちろう) 
1954年福岡県生まれ。玉川大学文学部名誉教授。九州大学大学院文学研究科修了。博士(文学)。九州大学文学部助手、玉川大学文学部教授を経て、2019年より現職。西洋の近現代哲学を専門とするが、興味関心は幅広く哲学とテクノロジーの領域横断的な研究をしている。著書として『フランス現代思想史』(中公新書)、『思考実験―世界と哲学をつなぐ75問』、『12歳からの現代思想』(以上、ちくま新書)、『モノ・サピエンス』(光文社新書)、『ネオ・プラグマティズムとは何か』、『ヘーゲルと現代思想の臨界』、『ポストモダンの思想的根拠』、『異議あり!生命・環境倫理学』(以上、ナカニシヤ出版)、『いま世界の哲学者が考えていること』(ダイヤモンド社)、『答えのない世界に立ち向かう哲学講座』(早川書房)、『世界を知るための哲学的思考実験』(朝日新聞出版)など多数。

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