2024年04月28日( 日 )

【創業30周年】(株)高太~「人との出会いは宝物」高尾平八郎会長、自らの半生を語る(2)

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 建設資材販売などを手がける(株)高太(佐賀市)は今年で設立30周年を迎えた。同社の高尾平八郎会長に自らの半生を振り返ってもらった。

山下商事に就職、八幡での日々

高尾 平八郎 氏

 1964年4月初旬、母と姉に見送られ日田駅から列車に乗り、八幡に向かう。当時は「鉄は国家なり」と言われた時代。八幡の街は天気が良い日でも光化学スモッグで太陽が見えなかったという。

 会社が用意した木造2階建ての独身寮には高校の先輩や、うきは出身の先輩など8人が住んでいた。うきは出身の菅先輩からは営業の基本について教えてもらい、日田高校の2年先輩である児玉先輩(実兄は九州大学を卒業、九電副社長に)からは私生活の面倒を見てもらうなど、楽しい毎日だった。

 山下商事の従業員は約20名。高尾氏の仕事はコピー機(ドイツ製)のメンテナンスと修理で、うきは出身の木室氏が上司だった。コピー機を解体して組み直し、電気の配線をする日々だったため、ガソリンとオイルで手は荒れ放題だったという。

 入社して数カ月が経ち、木室氏と枝光にあった八幡製鐵所の事務所で使用中のコピー機のメンテナンス、事務所内で解体・掃除を行った。作業が終わると、1人で市内電車などに乗って各工場の事務所を訪問する日々を過ごした。

 「鉄は国家なり」と言われた時代、八幡製鐵所は24時間体制・3交代勤務で市電は24時間運行。製鉄所の南門・東門やそれぞれの入口には、多くの弁当屋さんが弁当を売りにきていた。

 八幡の桃園地区には、八幡製鐵所の社宅があった。社宅は5階建ての近代的なつくりで、ガス・電気・水道代は無料。大蔵地区には係長・課長・部長クラスの社宅があった。庭付き一戸建、2階建ての鉄筋コンクリート造と、皆のあこがれの社宅だった。

 ある日、コピー機のメンテナンスをしていると、「部品の交換で修理代が高くなるので新しいコピー機と入れ替えてほしい」との要望があった。本社に戻って上司と相談し、三田工業北九州営業所の南所長にお願いして、三田のコピー機を納品した。

 山下商事は当時、最先端の計算機(イタリアのオリベッティ製)を八幡製鐵所に納品しており、北九州地区ではトップの商社だった。高尾氏もメンテナンスの傍ら、営業の菅先輩に同行して営業のイロハを教育してもらった。菅先輩が「お客さまの入口、敷居が自分の靴で減るまで訪問したら必ず注文が入る」と言っていたことが、今でも強く印象に残っているという。

 工務店や運送会社などへの営業をしていた22歳のときのことだった。バイクで走行中、前にいた乗用車が突然左折したため、転倒事故を起こしてしまう。社長から「事故を起こすようならバイクに乗るな」と言われ、カッときて退職。日田の実家に戻り、再出発することにした。ちなみに山下商事は10年後に破産している。

 実家の兄が建築(個人住宅)請負業をしていたので、基礎工事や木材運搬などを手伝った。高校時代に卓球部のキャプテンだったこともあり、夕方は後輩を指導する日々を過ごしていた。

 卓球部の部長は金丸先生で、高尾氏のことをよく覚えていた。ある日、金丸先生から「自分の同級生の会社から1人社員を募集したいという相談がきている。考えてみてくれないか」という話があった。

 後日、面接日時が決まり、飯田産業専務の飯田正雄氏が実家を訪れた。飯田氏からは「大成建設が松原ダムの建設を受注し、八幡高炉セメントで飯田産業が7万トン、福岡商店が5万トン、現地で納品するので立会者として採用し、納品完了後に福岡本社勤務として採用したい」との説明を受けた。数日後、福岡市中央区の九州朝日放送(KBC)近くで筆記試験を受け、晴れて採用となった。

(つづく)

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